表 紙

hyoshi

発行者より(P.1)

 十月二日の産経新聞に「両翼と戦う河合精神」というコラムが載っていた。両翼とは左翼マルキシズムと右翼ファジズムのことだ。この記で河合栄治朗という人を知った。「河合栄治朗 戦闘的自由主義者の真実」松井慎一郎著「河合栄治朗闘う自由主義者とその系譜」粕谷一季著の二冊を読んでみた。河合の書いた思想書「トーマス・ヒル・グリーンの思想体系」を県立図書館から借りて読みかけたのだがとても私には歯が立たない。読むのやめた。河合は一九四〇年に「学生に与う」を書いて、一九四一年に「国民に愬う(うったう)」を書いている。「学生に与う」の方はよく売れて今でもいろんな出版社から増版されている。「国民に愬う」は増版がない。載っているのは「河合栄治朗全集第十四巻号」だけだ。これを手に入れ「国民に愬う」を読んだ。私の中で先の大戦の事が消化されないでいたのだが、これを読んで腑に落ちた。本当に腑に落ちたという表現があたってる。五臓六腑にストンと落ちたのだ。もう大丈夫だ。これから日本人として誇りを持って生きて行ける。来年は戦後七十年を迎える。日本はそろそろ War Guilt Information Programの呪縛から解き放たれ卑屈な謝罪精神を捨て雄々しく前進せねばならぬ。その為にこの本は役立つ。「河合栄治朗全集第十四巻号」はアマゾンで注文したのだが三冊しかなかった。内、私が一つ買ったから残り二冊しかない。「国民に愬う」を書き写し本として残す事にした。

      

            二〇一四年十一月

                                             八木 謙

序(P.2)

 

一昨年の暮れに私は切迫して来た日本の危機を考えて、憂慮の余りに座視するに堪えない心持ちであった。然し私の身辺の事情は、私の発表の自由を許さなかった。昨年の二月から三月にかけて「学生に与う」の原稿を書いている間に、「国民に与う」とも云うべき一書を姉妹編として、いつか書きたいと思った。「学生に与う」が学生を対象として、常時平和の生活を書いたものとすれば「国民に与う」は一般国民を対象として、非常時の生活を書くのである。こうした姉妹編を頭に置きながら、書くべきことを残しておいた。今年の一月の末に、我々の祖国の情勢は、愈々(いよいよ)急迫しているかに思われた。そして今が私の素志を果たすべき時と考え、二月上旬から山間に引き籠もり、数日の間、夜を日に次いで本書を書き終えた。

 昨年の夏から新体制に関する著述が多く現われた。私は今日夫々の専門の立場から、詳細な技術的研究を発表することが、極めて必要だと考えるのであるが、然し他方にはそうした専門的著述の外に、否それにも増して、国民に対して精神的忠言を呈する必要があると思った。本書は一般市民の知らない専門的知識を書いてはいない、しかし私は寧ろそれを避けたのである。知識は必要である、然し知識を駆使する精神は、更により以上に必要である。精神を説くものこそ、今日の日本に最も欠けているのではないか。私は本書に於いてそれを意図したのである。本書は一般国民に読んで貰いたい為に書かれたのであるから努めて平易通俗ならんことを期した。その為にわたしの根本思想に触れることを避けることにした。私は本書を書いている間に私の思想体系と本書との連鎖となるべき別の一書が必要であるように考えた。

序(P.3)

若し事情が許したならば今日の危急存亡の際に、批判より寧ろ声援が大切だと思うからである。私はこの一書によって、聊(いささ)か祖国に報いようと念じた。我々の如く文筆を職とするものにとって、之より外に祖国に尽くす道なく、之だけが我々に許された唯一の道だからである。静かな書斎を慕う学徒も、読書と思索に耽るに堪えない。祖国の状況は余りにも切迫しているからである。

      

            昭和十六年二月十九日

                                     河 合 榮 治 郎

目  次(P.4)

           序(二)

           一 はしがき(五)

           二 唯二途あるのみ(八)

           三 政府への進言(一六)

           四 国民への警告(二七)

           五 国内分裂を警戒せよ(四〇)

           六 日本の使命(五〇)

     

           あとがき(六〇)

一 はしがき(P.5)

                                

 親愛なる同胞諸君、凡そ今日ほど一億の同胞に信愛の情を感じる時はない。何故なれば我々同胞は共通の危険な運命の下に立たされているからである。我々を一歩一歩として駆りつつ運命は、誠に日本歴史あって以来の未曾有の危機である。今や祖国の臨みつつある状態が、どれほど深刻なものであるかは、敢えて消息通の特種を待つに及ばない。少しでも新聞を読んでいるものは、日本を取り巻いている外交上の状勢の、実に容易ならぬものであることを感じることが出来るであろう。我々の日常生活を顧みても、我々が大戦のさ中に在ることが、緊緊と身に染みて来るに違いない。外交的、軍事的、経済的の難局は、一日一日と我々に迫りつつある。実に我々の祖国は非常大事な時期に際会しているのである。

 我々は昭和六年の満州事変に於いて、今日に至る第一歩を踏み出した。昭和一二年の支那事変に於いて第二歩を、更に昨年の日独伊軍事同盟に於いて第三歩を踏み出した。今日のような危機がやがて来るであろうとは、少しく常識を解するものならば、十年以上前に予知することが出来たのである。然し我々が好もうが好むまいが、我々は既に第一歩、第二歩、第三歩を踏み出した。そして今や我々国民は動きの付かない現在の状態に自らを投じたのである。いかにしてかかる状態に至ったかは、今日我々の論議すべき限りではない。我々は過去を顧みて死児の齢を数えような愚を為してはならない。いつ誰が始めたにもせよ、結局は我々一億の全国民の共同の責任である。一億一丸となって此の難局にぶつかろうとも、尚突き破ることが出来るか出来ないか、測られざるほどの難局に、我々は刻々として臨みつつある。我々をして願わくば、過去を語ることなからしめよ。我々をして願わくば、唯前方をのみ、将来をのみ熟視せしめよ。

一 はしがき(P.6)

 国民は祖国を見舞いつつある運命を、恐らくは直感しているであろう。だが然し薄露を隔てたように模糊として直感しているのではなかろうか。我々の同胞が北支、中支、南支の戦線で、生死を賭して戦いつつある後方で、酒に酔って一時の憂さを晴らしていることはないであろうか。祖国の全体が危機に瀕している時に、自分の利益のみ血眼(ちまなこ)になっていることがないであろうか。親しい人々の集まりで、まるで他人事のように、政府の政策を批評していることがないであろうか。我々は政府当局の熱心な努力に疑いを挿みたくはない、だが一身を賭して祖国を救うと云う真剣さがあるであろうか。私をして率直に云わしめれば、今日の日本には憂国の気魄と情熱が欠けてはいまいか、更に一言にして云わしめれば、此の危機に際して、この国民に道徳的の弛緩がありはしないか。

 我々の祖国を守る義務に就いて、誰か疑いを抱くものがあろう。然るに我々国民の中には、危機に面を背けようとする怯懦と臆病、最悪の状態を恐怖して之に直面しまいとする卑怯と迂闊と呑気とその日暮し、徒(いたずら)に責任を他に転換して独りいい子になろうとする冷淡を狡さ、凡そこうしたものがないと云えるか。今日の日本の危機はなるほど、外交的、軍事的、経済的なものであろうとも要するに根本の問題は道徳的な問題である。祖国の運命に対して、奮然と起つことの出来ない国民は、道徳的の無能力者である。若し我々国民が道徳的の敗者であるならば、幸いにして戦いに勝とうとも、戦勝が却って国民を廃頽と堕落とに駆るであろう。若し仮に不幸にして戦いに敗れれば、再起の気力もない亡国の民となるだろう。今や我々日本国民は道徳的試練の下に立たされている。

 筆者は静かな読書を思索を慕う学徒として、学問と教育を以て祖国に酬いようと念じていた。殊に最近二、三年来の身近の事情から、遥か十年の前途を見越して、自分の学問と教育とを役立たそうと考えていた。然し一昨年の暮れ以来の祖国の状勢は、私をして徒に座して黙視するに堪えないほどの不安と焦燥に駆り立てた。殊に今日の危機が結局は国民の道徳的の問題であると思う時に、苟も(いやしくも)学問と教育に携わる者として座視するに忍びないのである、何故ならば道徳的の問題は我々の問題だからである。敢えて茲(ここ)に私の孤衷を披瀝して、同胞の祖国愛に愬(うった)えようとする所以である。

 親愛なる同胞諸君、願わくば我々をして祖国の運命を男らしく直視せしめよ。我々をして幸運や神風を待ち臨むことなしに、我々自らの力によって祖国の危機を救わしめよ。之が祖国への義務であり、又我々自らへの義務である。

一 はしがき(P.7)

日の危機が結局は国民の道徳的の問題であると思う時に、苟も(いやしくも)学問と教育に携わる者として座視するに忍びないのである、何故ならば道徳的の問題は我々の問題だからである。敢えて茲(ここ)に私の孤衷を披瀝して、同胞の祖国愛に愬(うった)えようとする所以である。

 親愛なる同胞諸君、願わくば我々をして祖国の運命を男らしく直視せしめよ。我々をして幸運や神風を待ち臨むことなしに、我々自らの力によって祖国の危機を救わしめよ。之が祖国への義務であり、又我々自らへの義務である。

二 唯二途あるのみ(P.8)

人間は一つの場所に立って考える時に、此の途(みち)と彼の途と沢山の途が、眼の前に浮かぶであろう。そしてどの途を選択したらよいかに就いて、迷い悩むことが多かろう。若しもその人の境遇に余裕があるならば、何れを選ぶか迷うとも、時期を失して取り返しの付かないことにならないかもしれない、又或いは一つの途を採ってから、再び別の途に引き返しても、大した損失にならないとも云える。然し之は彼の境遇に余裕があるか、周囲の状況がさまで切迫した事情にない場合にのみ、許されることである。

私は目下の日本の境遇を考えると、此の境遇は既に余裕にない危急に迫っていることと、日本を囲む世界の状勢は、既に日本を駆って脱するに途なき窮境に追い立てていることを感じる。かかる非常の境遇に陥っても人間はともすれば楽天的の心理に耽って、何とか融通の途がありそうにも思い、或いは一時の姑息因循(こそくいんじゅう)を願う卑怯さから、之でもなくあれでもない妥協の途がありそうに思い易い。甚だしきに至っては、自己の力に絶望して、世界の状勢が自然に変化することさえ待望することもある。然し私は思う、今日の日本には、前途二途ある、而して唯二途あるのみと。

それでは二途とは果たして何か。その一つは一九一八年の秋の独逸(ドイツ)の運命である。

一九一八年八月(大正三年)世界大戦が始まった時に独逸は所謂シェリーフェン作戦によって、先ず西部戦線で仏国を破り、次いで兵を返して東部戦線で露西亜(ロシア)を敗ろうとした。不幸にして西部戦線では白耳義(ベルギー)の抵抗の為に二週間を無駄にし、巴里(パリ)を目睫(もくしょう)の間に眺めながら、マルヌの戦いで敗れ後退の止むなきに至った。ここにシェリーフェン作戦は失敗したのであるが、偶然にもヒンデンブルグとルーデンドルフとによって東プロシアに侵入した露軍に、有名なるタンネンベルグ戦役で殲滅(せんめつ)的打撃を与えることが出来た。そこで作戦を一変して、先ず東部戦線で露軍を破り、次いで西部戦線で仏白英の連合軍を仆す(たおす)こととした。シュリーフェン作戦を逆にしようと云うのである。一九一五年から始められた露軍追撃がいかに猛烈であったか、一九一六年のバルカン掃蕩が如何に迅速であったか、一九一七年には現在の同盟国たる伊太利(イタリア)さえも、再起の力なくなるほどの打撃が与えられた。かくして一九一八年の三月ブレスト・トリウス条約で独伊は露西亜と単独講和を結び東部戦線から兵を廻して西部へ集中出来るようになった。

二 唯二途あるのみ(P.9)

戦いで敗れ後退の止むなきに至った。ここにシェリーフェン作戦は失敗したのであるが、偶然にもヒンデンブルグとルーデンドルフとによって東プロシアに侵入した露軍に、有名なるタンネンベルグ戦役で殲滅(せんめつ)的打撃を与えることが出来た。そこで作戦を一変して、先ず東部戦線で露軍を破り、次いで西部戦線で仏白英の連合軍を仆す(たおす)こととした。シュリーフェン作戦を逆にしようと云うのである。一九一五年から始められた露軍追撃がいかに猛烈であったか、一九一六年のバルカン掃蕩が如何に迅速であったか、一九一七年には現在の同盟国たる伊太利(イタリア)さえも、再起の力なくなるほどの打撃が与えられた。かくして一九一八年の三月ブレスト・トリウス条約で独伊は露西亜と単独講和を結び東部戦線から兵を廻して西部へ集中出来るようになった。

 一九一八年の独逸軍の大攻撃が始まり、再び巴里近くまで侵入することが出来たが、独軍の兵力は最大限度まで動員されていたので、ここで力及ばずして、再び退却するの止むなきに至った。七月からフォッシュ元帥の率いる連合軍は攻撃に転じて、八月から九月に亘り、徐々として独逸軍を占領地から撃退することになった。然し独逸としては、退いて予備軍に立て籠もり、そこで兵員の節約をすることも出来たので、之で独逸が敗北したものと聯合国でさえも信じていなかった。

 だが独逸の同盟国である墺太利(オーストリア)が崩壊して、聯合国と単独講和を結んだ。かくして独逸の南部は敵軍の侵入の脅威に暴露されるに至った。それでも尚当時の独逸の領土には、敵軍の一兵も足を入れてはいなかったのである。然し独逸の敗北は戦場の敗北から来たらずして、国内に於ける人心の頽廃から来た。之より先一九一六年以来、カイザーは唯帝位に座していただけで事実上はルーデンドルフ将軍の独裁政治が布かれていた。ルーデンドルフは之以上独逸の民心を統一して戦争を継続することの不可能なることを悟り、自らの独裁権力を祖国の為に抛棄(ほうき)した。世界の歴史に於いて独裁政治家が、かくも潔く自己の権力を犠牲にした例はないと云う。之に代わってバーデンのマックス公が宗相の地位についたが、公は進歩的な政治家であった。公が政権を取った時にカイザーから保証された条件によれば、独逸は其の時に民主主義国家に変化したのであったが、世界はそれを認識し得なかったし、独逸国民すらも自国の政治的変化を悟らなかったのである。

二 唯二途あるのみ(P.10)

 公は戦争を打ち切ることが、独逸の為に絶対必要であると考えたので、十月五日米国大統領ウィルソンに宛てて、有名なる一四箇条の戦争目的を条件として、休戦の申し入れを為した。

 ウィルソンの十四箇条の戦争目的とは、大統領が公債募集の宣伝の為に、ニューヨークのオペラ劇場で為した歴史的大演説である。偶然にもニューヨークに数日前に到着した私は、幸いに切符を手に入れて七階の座席から、此の演説を聞くことが出来たが、ウィルソンは聯合国は何の為に戦争を為しつつあるかと自問して、戦争目的を十四箇条に分けて列挙した。その中に無併合無賠償の箇所があった。独逸がウィルソンの此の戦争目的ならば米国は聯合国の一つであり、而もウィルソンは事実上の於いて大戦を指導していたからであり、英仏の政治家も大体之と類似のことを云っていたからである。かくして先ず休戦が議せられた、そしてあの峻烈なる休戦条約が結ばれた。実に一九一八年の十一月十一日である。それは峻烈なる休戦条約であった、然し戦争行為を中止する為だけから云えば、あれだけの条件を独逸に課することは必要であったとも云えないではない。然し一九一九年六月のヴェルサイユ条約で独逸に課せられた講和条件は、凡そ峻烈と云うものの中の最も峻烈なものであった。独逸は其の領土を八方から切り取られ、其の上に莫大な賠償金を押し付けられた。其の金額は凡そ人間の頭脳で計算の出来ない程の額だと云うので、人はこれを天文学的数字と云う。此の条件は独逸を再起不能の状態に置いたばかりではない、実は独逸人は何十年間汗水垂らして働こうとも、到底返済することの出来ない足枷手枷をかけられたのである。

 独逸があれほどの大戦を賭しながら、ウィルソンの戦争目的で休戦しようとしたことは、余りにも虫がよ過ぎたとも云えよう。又聯合国が独逸を世界の平和の攪乱者として、あれほど峻烈に懲罰を加えたことも尤もだと云えるだろう。又独逸を再起不能にしようとしたことが、世界の平和の為に結局に於いて賢明であったか、独逸自身の為に幸福であったか、之らの点に就いては、色々議論すべき問題がある。然しここで私の云いたいのは、之らの問題ではない。独逸国民はあの峻烈なヴェルサイユ条約を予知したかどうか、覚悟の上で休戦を申し入れたかどうかである。

二 唯二途あるのみ(P.11)

独逸の政治家も国民も、たとえウィルソンの十四箇条の範囲で講和の出来ないことは覚悟したであろうとも、あれほど峻烈なヴェルサイユ条約を押し付けられるとは、よもや覚悟しなかったであろう。独逸の陸軍はまだ国境を守るだけの兵を余していた。独逸の海軍は英国に次ぐ大艦隊を擁して、殆ど無傷の儘にキールの軍港に待機していた。若しもあれほど峻烈な条件を強制されると知ったならば、独逸の陸軍は更に国を死守したであろう。独逸の海軍も最後の突撃を英国艦隊に対して試みたであろう。独逸の国民も内部的動揺の兆候はあったにしても、再び立ち直る勇気を取り戻したかもしれない。然し一度休戦を思い立つや、忽ちに陸軍も海軍も国民も戦意を喪失した。然らば何故か、ウィルソンの戦争目的を信じて、之に運命を托したからである。一言にして云えば、独逸国民は夢を現実と誤信したのである。私が同胞諸君に警告したいのは、実に此の点である。我々も亦夢を見て、独逸国民の轍を踏んではならない。

 ヴェルサイユ条約に屈服した後の独逸が、いかに惨憺(さんたん)たるものであったかは、一九二三年(大正一二年)に独逸を旅行した私の親しく目撃した所であった。前大戦後の独逸の運命は、対岸の火災と同様に、我々と関係ないかの如くに思ってはならない。人はあるいは云うかもしれない、日本は前大戦に於ける独逸の如くに、英米仏等の強大国と戦争をしているのではないと。然し之ほど恐ろしい錯覚はあり得ない。日本は昭和六年の満州事変に於いて第一歩を踏み出し、次いで支那事変に於いて第二歩を踏み出し、更に日独伊の軍事同盟によって第三歩を踏み出したのである。日本がいかに自らの立場を宣明しようとも、英米諸国の眼に映じた日本は、前大戦に於ける独逸と異なる所はなく、明らかに日本を世界の平和の攪乱者と看做しているのである。かかる観察が正当であるかどうかをいかに議論しようとも、英米諸国の印象を今俄かに変化せしめることが出来ないならば、日本が受けている印象が独逸と同様であることを、我々は臆することもなく、認識しなくてはならない。現に英米と戦端を交えているかいなかは、何ら関係する所はない。日本国民の立場から見れば、まだ英米を敵国として戦っていないにしても、英米の立場から云えば、彼らは既に日本を敵国と考え、心理的には日本と兵火を交えているのである。

二 唯二途あるのみ(P.12)

若し我々の中に日本が英米と敵対していないと思うものがあるならば、又日本の今までの地位が前大戦に於ける独逸のそれと違うと考えるのもあらば、それこそ驚くべき錯覚であって、今日の急務は此の錯覚より一刻も早く覚醒することでなければならない。

 我々日本国民は満州事変に於いて既に一歩を踏み出した。当時既に日本の地位が今日の如くなることは必ずしも予見し得ないことではなかった、然し我々は敢えてこれを押し切ったのである。昭和十二年の七月、日本が支那事変に踏み出した時に、日本を巻き込む運命が何であろうかは既に明々白々であった。然し我々は敢えてそれを回避しなかったのである。誰が日本を此の地位に置いたかは、今日議論しても詮ないことである。結局は日本国民の全体が其の共同責任を負わなければならないのである。前大戦後に於いてカイザーに責任があると云い、ルーデンドルフに責任があるとしても、それは独逸国民の結局の責任であることは疑えなかった。そして独逸国民の全体が責任を負わされたのである。我々日本国民は満州事変以来、既に余りに遥かに道を歩んだ。今更我々が元の道に引き返すには、既に遠く歩み過ぎた。我々に残された道は唯前方にある、前方に向かって進むことだけが、唯我々に残されているのである。

 そこで我々が戻ることもせず、進むことも為さないで、現在の場所に停止するとしたら、どうなるか。人間が一歩も二歩も三歩も踏み出した後に、停止すると云うことはあり得ない。本人は停止している積りであろうとも、第三者はそれを停止と看做さない、唯必要がある為に休息しているに過ぎないと思うであろう。否そればかりか、既に一方の立場を採って進んだ以上は、対立諸国の戦闘力が増加するならば、それは我々の敗北と同じことである。我々が停止しているとしても、我々の同盟国が不幸な運命に陥るならば、我々も亦それと同一の運命を担うものと覚悟しなくてはならない。従って今日の日本に、何事も為さずして停止することはあり得ない。停止は唯消極的の前進に過ぎないのである。消極的の前進は積極的の前進と比較して、失う所は同じであって、得るところは何物もない、唯勇気と決断を欠いたと云う嘲笑と罵倒を受けるに止まるであろう。

 若しも日本の今日をば、前大戦当時の独逸と違うと考えるものがあるならば、其の人は卑怯にも事実に面を背けているのである。

二 唯二途あるのみ(P.13)

我々は怯む所なく臆する所なく、我々の今日の地位を直視しなくてはならない。我々の地位を直視するに於いては、往年の独逸のそれにより教えられる所多いであろう。

 往年の独逸を見舞った運命は、或いは日本を見舞うべき運命かも知れない。あの恐るべきヴェルサイユ条約が未来の日本に課せられるべき桎梏であるかもしれない。之が日本の前途に横たわる一つの途である。我々の前に二つの途がある。而して之が其の一つの途である。

 日本に課せられるヴェルサイユ条約とは、いかなるものであるかを髣髴(ほうふつ)として思い見よ。日本国民はこの運命を甘んじて受け得るであろうか。私は思う、我々日本国民は屈辱に堪え得られない自負心の強い国民であると。日清戦役後の三国同盟の干渉で、遼東半島の還付を余儀なくされた日本が、いかに十年臥薪嘗胆を絶叫して来たか。我々が之ほどの峻烈な条約を押し付けられた其の時に、いかに我々が懊悩し憤激しようとも、時は既に遅い、彼のウィルソンの戦争目的を夢見た独逸と同じであろう。では我々が涙を呑んで屈服した後に、平和と安定が日本国に齎(もたら)されるかと云うに、決してそうではない。自負心の強い日本国民は、必ずや臥薪嘗胆を絶叫して、原状の回復を謀ろうとするだろう。そしてそれが為に国内に対立と分裂と紛糾とが、幾年となく継続し、やがて圧制政治の実現となって一応片付くと共に、第二の極東戦争が始まるだろう。之までに日本の国内にどれほどの混乱と犠牲と浪費とがあるかもしれない。

 我々は或いは来るかも知れない一つの途、即ち日本のベルサイユ条約を予想して、之が我々にとって堪え得ることであるかどうかに就いて、今に於いて迷わざる決定を為さねばならない。若し之が我々にとって忍耐し得ないことだと云うならば、我々は断固として此の途を捨てなければならない。所が日本国民の全体が我々の前方に此の恐るべき途のあることを、気付かざるものの如くである。或いは漠然ながら気付いていても、余りに恐るべき運命に直面するに堪えないで、強いて気付かざるが如くに、之を思うことさえ回避しているのではなかろうか。だが我々は気付くにしても気付かないにしても、我々の前にこの恐ろしい途が横たわっていることは、如何にしても抹殺することは出来ない。そして我々が此の途をマザマザと熟視せずにいればいるほど、我々は一歩一歩と此の途に近づいて行くのである。

二 唯二途あるのみ(P.14)

日本国民は夙に此の途を直視して、之に対応すべき覚悟を整えねばならなかった。然るに躊躇逡巡徒に決する所なく、一日一日安きを貪って、今日まで其の日暮しを続けて来た跡が、ないであろうか。今こそ我々の前に横たわる一つの途をマザマザと思い浮かべて、之を好まないなら、我々は此の途を蹴って、残された別の途を採らなければならない。

 では別の途とは何を云うか。云うまでもなく我々の前進を男らしく継続することである。往々にして今更昔に戻ろうと考える人がある、然し之こそ誤れりの甚だしきものである。満州事変以来我々の踏み出した途は、引き返すには余りに遠く来過ぎた。我々に残されたことは、既に踏み出した途を、大股に力強く歩み続けるの外はない、而して之のみが日本を独逸の運命から救う唯一の途である。

 かく云えばとて我々の途は必然に英米と戦火を交えることとは限らない。我々は英米を敵とする意図もなければ必要もない。唯我々が何を意図しようとも、英米が我々を敵とするかしないかだけの問題である。我々より好んで、英米と衝突する必要はないが、若し我々の前進を阻止するものがあるならば、我々は断固たる決心を以って之に当たらねばならない。実は今日まで此の決心がなかったからこそ、我々の前途は阻まれたのである。我々は右顧左眄して徒に足踏みをしていた。だが停止は消極的の前進であったからこそ、失う所はあっても得る所はなかった。唯漫然と恐るべき運命へと、一歩一歩近づいたに過ぎなかったのである。今日の我々には、躊躇と逡巡、無益と其の日暮らしは許されない。我々は勇敢に男らしく、一方の血路を切り開くことによってのみ、我々の祖国を亡国から救うことが出来るのである。而して男らしく勇敢に起こったもののみが、たとえ恐ろしい運命の下に仆(たお)れようとも、再び起ち上がる気力を持つことが出来る。

 私は祖国日本を愛する、又私は平和を愛好する。曾(かつ)て「日本を巻き込む戦争は極東大戦となり、不測の災害を日本に齎(もたら)すだろう」と書いて、出来る限り日本が戦争に立ち入ることを防ごうとした。それが祖国日本の為であると考えたからである。然し戦争を防止せんとすればとて、若し日本が戦争に巻き込まれることが起これば「一旦緩急あらば我々は財を捨て命を擲(なげう)たなければならない」と書いて、戦争勃発の後には、我々が祖国を防衛する義務があることを説いたのである。

二 唯二途あるのみ(P.15)

唯日本は既に数歩を踏み出した。曾て平和が祖国の為だと書いた私は、今日本が一歩一歩臨みつつある危険を考える時に、祖国日本の為に毅然たる態度を要望せざるを得ないのである。

 日本国民は今こそ、前大戦の独逸の運命を、マザマザと思い浮かべねばならない。若し之を好まないとすれば、我々は進んで一方の血路を開かなくてはならない。我々の前に途は二つある、而して唯二つしかない。半途彷徨(ほうこう)は既に許されない。

三 政府への進言(P.16)

 我々の祖国日本の危機が前述した如くであれば、此の際に此の時局を担任する政府当局の苦衷(くちゅう)は、誠に並々ならぬものがあろう。我々国民は政府当局の諸氏に対して、充分感謝の情を持たなくてはならない。思うに諸氏の良心にして鋭敏であるならば、夜も眠れぬほど国事を憂慮されているに違いない。諸氏の苦労の大なるものあると同時に、他方では此の難局を打開する当局に在ることは、誠に諸氏の名誉であると共に会心のことでもあろう。何故ならば一歩を誤れば深淵(しんえん)に陥るかも知れない祖国の危機を救うことは、日本の歴史が生んだ凡ゆる忠臣義士の挙を併せても、之に勝るとも劣らない偉大な任務だからである。

 祖国の運命は国民全体の責任であって、敢えて当局に在る諸氏のみの責任ではない。我々はお互いに共同の責任を負い、共通の運命を担っているので、誰彼の差別のあろう筈はない。我々一億の国民は一致して、政府当局の背後に在る。然し責任は共同であろうとも、各々(おのおの)の分担する任務の大小は必ずしも同じくはない。其の祖国の運命に及ぼす影響も亦同一ではない。此の点から云って、政治家、軍人、官史ほど、今日の日本に於いて任務の重大な、従って責任の重大なものはない。実に祖国日本の運命は、先ず諸氏によって担われていると云っても決して過言ではないのである。

 我々の祖先は武士道の精神を教えられ、それによって育てられた。彼らの念とする所は一意君国の上に在った。誠心誠意の職責を果たして、決して一身の栄達利益を眼中に置かなかった。責任を他に転嫁して、一身の安全を貪(むさぼ)ろうとはしなかった。彼等は若し其の責任を全うし得なかった場合には、いつにても腹を切って申し訳をする覚悟を持っていた。

三 政府への進言(P.17)

之が武士の精神であった。日本精神の唱えられること盛んなる今日に於いて、最も懐かしめるのは、あの武士の精神ではなかろうか。武士道の必要なるのは、決して政府当局に於いてばかりではない、今日こそ国民全体に鼓吹されねばならないが、然し政府当局の諸氏の任務の重大なるだけ、先ず諸氏に於いて、武士道の精神が生かさなければならない。明治以来の歴史を取ってみても、維新前後の日本は累卵(るいらん)のような危機に在った。日清戦争でも日露戦争でも、真に国のを賭したのである。其の都度日本は有能な政府当局と、之を信任する国民があって、国難を打開して来た。そして今日の国難は今までの国難に比して、勝るとも劣らない、否幾倍かの深刻な国難である。此の重大な時局を担当される政府当局が、其の責任の恐ろしさを自覚して、一億国民の輿望に副われんことを、私は切望して止まないのである。上先ず動いて下之に従う。先ず政府当局より始まって、責任の自覚が全国津々浦々に及ぶならば、国難を打開する為の精神的準備は、第一歩を整えたと云えるだろう。

 それでは此の際に、政府は先ず何を為すべきであろう。私はここで再び前に書いたことを繰り返さざるを得ない。我々の途は二つある、而して唯二つしかない。一は我々を亡国たらしめて往年の独逸たらしめるであろう。之を採らないとすれば、我々は残された途を進むの外はない。左を眺め右を顧みて、徒に躊躇逡巡していることは、一歩一歩亡国へと自らを駆り立てることである。故に私の政府に要望する所は、先ず日本の前途を洞察せよ、と云いうことである。政府の局に在るものは、我々の有するよりも以上の重要な情報を手にしているであろう。之は個(もと)より必要なことである、然し数多くの情報は、往々にして去就(きょしゅう)に迷いしめ易い。一歩退いて今日の日本を、冷静に客観的に、歴史的洞察の下に観察するならば、私が日本の前途を大観した結論は、決して間違っていないと思う。我々の前に横たわる二つの途を睨み合わせて、熟慮に熟慮を重ねた上は、政府は日本を亡国より救う血路を開かねばならない。再び半途に彷徨して、時間と精力を空費してはならない。或いは当局は既に熟慮して、果断しているのかもしれない。それならば私は何事も付言する必要はない、唯満足して退くのみである。

三 政府への進言(P.18)

だが老婆心の憂いでなければ、再び繰り返そう。熟慮せよ。果断決行せよ。而して貫徹せよと。

 時局重大であるだけ当局の地位に在るものは、事を決するに容易ではなかろう。私は其の苦衷に同情して止まない。然し私の敢えて言いたいのは、事態が切迫して躊躇を許さないと云うのみではない。何れとも決せずに、右顧左眄していることが、知らず識らずの間に、国民の中に卑怯卑屈安寧蟄居(ちつきょ)の陋風(ろうふう)を養いつつあると云うことである。之こそ恐るべき国民の道徳的退廃でなければならない。若し当局者をして正直に感想を漏らさしむるならば、今日の国民が日清戦争や日露戦争の当時の如くに、道徳的退廃を欠いていることを、物足りなく思われるであろう。私は此の点に於いて当局に同情するのである。だが何故に国民の緊張が乏しいかと云うならば、之には原因は多々あろう。そして私は後にそれを問題にしたいと思うのであるが、尠なくとも其の原因の一つは、当局の態度が躊躇逡巡していることに在る。若しも今日の如く半途彷徨の状態を継続して、徒(いたずら)に時日を遷延しているならば、たとえ外交上に軍事上には仮に有利な点があるとしても、国民の精神の弛緩と頽廃とが来るだろう。そしてそれこそ却って精神的の亡国となるのではないだろうか。勇敢に自己の信念の上に立って戦ったものは、たとえ敗れても精神的に成長する。然し何を為すともなく、其の日暮らしを営むものは、よしや多少の打算上に有利な儲けがあったとしても、其のことが既に民心を打算と功利に導いて、精神的に堕落せしめる。それならば戦いに勝つとも内部的に崩壊する。若し又敗れれば再び起ち上がる気力さえ喪失するだろう。国民の精神的影響から見ても、当局は之れ以上に決断を延ばすことは許されない。

 当局が果断決行を敢えてした後も、当局と国民は幾度か迷い惑う時が来るに違いない。国の安危を賭する決行が、そう易々と運ばれる筈はないからである。だが今日我々が引き返すには、既に遠く来過ぎたと同じように、否それ以上に、我々は元来た道へ引き返すことは出来ない。我々は前方を、唯前方をのみ眺めるの外はない。フレデリック大王がプロシアを率いて四面包囲の敵を受けて、七年戦役を戦っていた時は、大王は幾度か自信を失って自殺を図ろうとした。然し遂に初一念を貫徹して、今日の独逸を建設したのである。前大戦の時にも一九一七年、独逸の潜水艇で撃沈される英国の商船の数が日増しに増加して、英国の食糧は二週間しか保たないと云う切迫こともあった。

三 政府への進言(P.19)

流石の英国国民も自信が揺らいだ時に、唯独りロイド・ジョージのみは、毅然として自信を失わなかった、そして英国を戦勝へと導いたのである。同じ頃フランスも度々危機に瀕して、独逸と単独講和をしようと云う瀬戸際に追い詰められたこともあった。唯独りクレマンソーのみが不屈不撓、仏国民を鼓舞して独逸を敗ることが出来た。今後の日本にも、之でよいのかと云う迷いの襲う時もあろう。自信を失って茫然とする時もあろう。だが其の時である、国民の道徳的試練に及第の決するのは。迷い惑う国民が仰視して、自信を取り戻す為には、政府当局に揺るがぬ自信がなければならない。此の自信は才能からも手腕からも生まれない、唯人格からのみ湧いてくる。一億の国民が揺らいだ時にも、誰か一人は亭々(ていてい)たる巨木の如くに、空を望んですっくと聳(そびえ)え立っていなければならない。

 

 

 次に政府当局に要望したいのは、或る程度までの切迫した国状を国民に公表することである。勿論戦争最中であるから、軍事上の機密に亘(わた)る虞(おそ)れもあろう。又微妙な外交上の駆け引きもあろう。従ってどの程度まで国民に公表すべきかは、賢明なる当局の判断に任せる外はない。然し何らかの程度で国民に国状を知らしめることは、絶対に必要である。自分たちが一員である祖国が、何処へ向かいつつあるかが分からないほど、国民にとって頼りないことも果敢(はか)ないこともない。いかに公表しなくとも、祖国の運命を知りたがるのは、国民として憂国の至情である。至情であって而も事情を知らされないから、其の機微に乗じて、流言蜚語が盛んに乱れ飛ぶ。今日位の程度ならまだ風声鶴唳(かくれい)も恐るるに足らないであろうが、国状の愈々(いよいよ)逼迫(ひっぱく)して来るや、根も葉もない噂話から、いかなる恐慌が起こらないとも限らない。其の点だけを考えても、当局は国民に実情を発表して、決して風声に動かされない鍛錬を作って置くことが必要である。

三 政府への進言(P.20)

 云うまでもなく、今日の戦争は戦場で行われるのみでなく、国内に於いても、各家庭の台所に於いても、戦争はひしひしと響いて来ているのである。単に外交上や軍事上の事項ならば、隠しても隠し通すことは出来ても、国民の日々の生活まで影響して来る事項は、国民として無知で過ごしてはいられないし、其の間に乗じてデマが盛んに流行する。我々は日常生活の方面からも、或る程度まで国状の影響を受けていて、而も国状の大綱は充分に知らされていないと云う状態に在る。かかる状態は決して健全な状態ではない。殊に国運を賭する大事を決行する場合に、決して国民を結束統一する所以(ゆえん)にならないと思う。

 今日の国民が打って一丸となっていないのには、其の原因が多々あろう。然し其の一つは、国民が自国の運命に対して。呑気で迂闊だと云うことである。今にも敵の爆撃機が頭上に爆弾を落とすかも知れない時に、僅かばかりの利益の為に闇取引を企てたり、酒に酔って往来を蹣跚(まんさん)としているなどは、単に浅墓と云うものでもなく、自暴自棄と云うのでもない、自らの頭上に襲い来る危険を痛感していないからであろう。一億一心と云うスローガンは一億の国民が唯一人であるが如くに、一致団結せよと云う意味であろうが、それには我々が今何処を歩いているのかが知らされていなければならない。政府当局は或る程度まで国状を公表して、一億が一人の如くに、憂国の苦難を共にするようにしなければならないと思う。

 次に当局に要望したいことは、人を抜擢して、野に遺賢なからしめることである。従来も屡々(しばしば)云われたことは、実業界の意見を聴けとか、実際家を官史として任用する道を開けとか、云うことであった。之らのことは個(もと)より必要ではあるが、私の云いたいのは、それよりも更に広い意味で、人材をして国事に思い切り働かしめよと云うことである。

 今日の日本が必要とする人材に、二つの種類がある。一つは与えられた目的の為に、最大の結果を挙げる手段方策を案出する人材で、通俗に行政家と云われるのが之である。日本に於いては故後藤新平の如きは、天才的の行政家と云うべきで、独逸で云えばプロシア復興当時のシュタインの如き、英国の最近では故ミルナー卿の如き、共に着想名案の湧くが如き行政家であった。

三 政府への進言(P.21)

行政官庁の官史は結局此の意味の行政家に属する。そして今日の日本のように、政府官庁の仕事の拡張した時に、いかに多く探しても余る所のないのは、優秀なる行政家である。従来の官史で足りないならば、民間から充分に人材を求めることは、固より必要である。

 だが今日の日本の必要とする人材とは、行政家だけではない。行政家の為に一定の目的を与えるもの、高い意味の政治家(ステーツマン)が更に必要である。固より日本に政治家の少なきを憂えないが、ここに云う政治家とは、祖国の運命に対して深い洞察力を持つもの、短い時間に囚われないで、悠久の時間を考慮し得るもの、単に有形の事のみに眼を奪われないで、精神的のものを見得る魂の深さを持つもの、己に囚われないで純粋に公共の事を憂えるもの、之らの条件を備えたものが、高い意味での政治家である。此の意味からのみ、信念と気魄と情熱とが期待され得る、而して今日の日本ほど、信念と気魄と情熱とを必要とする時はない。勿論理想の政治家を求めても詮ないことであるが、政府が探求し国民が要求するならば、従来の政治家、官史、実業家、学者、記者、宗教家等の中に適当の人材のないことはなかろう。かかる政治家が一朝有事の暁に、国民の仰望(ぎょうぼう)の的となって、巨木の如く屹立(きつりつ)し得るのである。

 人材を登用するに際して、当然に問題となるのは、従来の党派の立場とか、主義主張の対立とか云う点である。挙国一致を必要とする時に、政府の部内に対立があってはならいことは、云うを俟たないが、今日の日本ほどに国状の切迫した場所には、いかに従来の主義や主張の差異があろうとも、帰する所は唯一つでなければならない。夫々の人々に小異を捨てて大同に就く推量と、和衷共同の精神とがなければならないと同時に、政府当局も亦従来の行き掛りや縁故に囚われないで、憂国愛国の高所に立って、普(あまね)く人材を求めて欲しい。固より祖国に対する根本観念を異にするものや、道徳観念の相容れないものは、却って断固として排斥せねばならないが、それは極めて少数の例外のことであって、今日のような危急存亡の時に、人材を空しく遊ばせて置くのは不経済である。私は平生(へいぜい)英国の歴史を読んで、感銘を受ける一事は、英国が国難に際会した時には、保守党が常に退いて、他の政党の首領をして、国難を打開せしめたことである。

三 政府への進言(P.22)

保守党は愛国憂国を以て自ら任じているから、自らは背後に隠れて、他の政党をして衝(しょう)に当たらしめれば、挙国一致が出来るからである。かくして前大戦を戦い抜いたのは自由党のロイド・ジョージであり、一九三一年の金融恐慌の際に内閣を率いたのは、労働党のラムゼー・マクドーナルであった。

 次に人材の登用を妨げるのは、我々の好き嫌いである。何れの国民にも多少の好き嫌いのあるのは、当然なことであるが、日本の国民ほど理屈を抜きにした好き嫌いの多い国民は尠かろう。それも私人として私生活の好悪の差別を設けるならば兎も角も、社会公共の生活に好き嫌いを持ち込んで、折角の人材を朽ちさせているのは、殊に此の危機に於いて余りに公私を混同しているものである。現在の英国のウィンストン・チャーチルは、決して徳望のある人でもなく、平生に好かれた政治家ではなかった。然し好かれない型の人ではあるが、果断決行豪胆に不適のチャーチルを首相に挙げたのは、国難の前に好悪を云う余裕がなかったからであろう。寧(むし)ろ非常危機の場合に、祖国の必要とする人材は、平生平和の時には却って一般には好かれない性格であるかも知れない。

 之を要するに、私は云いたい、普(あまね)く人材を求めて国事に思い切り働かしめよと。今日の日本ほど、人材を生産的に用いなければならない時はないからである。

 今日でも屡々(しばしば)我々の耳にするのは、経済組織を革新せよと云う声と、反対に現状維持をよしとする声である。私はここに其れの何がよいか云わないし、又云う必要もないと思う。何故なれば祖国の非常重大な時期に、国内の問題で兎角の議論をしているのは、余りに呑気であり迂闊だからである。それにも拘わらず、今日でもまだ革新か現状維持かの声、潮の満干の如くに往来しているのはどこに原因があるのであろうか。

三 政府への進言(P.23)

 第一は祖国の現状が危機に瀕していることがハッキリと自覚されていないからである。何れの方向に祖国の進路を採るかが、決定されていないからである。私が本書第二項に書いた我々の前途を、ここで三度思い起こして貰いたい。我々の前に横たわる一つの途が前大戦の独逸だとすれば、国亡びて産業もなけれな経済もない筈である。今日国内の組織で兎角の論議をしているのは、恰(あたか)も火山上で舞踏しているのと同様で、一方も他方も共に亡びることになろう。我々をして祖国の現状と未来とを真剣に認識せしめよ。其の時に既に之らの問題の大体は、解決されているのではないか。

 第二に、苟(いやしく)も我々が亡国を欲しないとすれば、我々は全力を傾倒して、一方の血路を切り開なくてはならない。其の際に我々の目標は明確である。いかにすれば一方の血路を打開し得るかである。此の目的に適するか反するかは、何らの成心があり偏見なく、冷静に科学的に決定され得る筈である。若し科学的に決定されないとすれば、実は何らかの成心があり、偏見があるからである。かくして科学的に決定された結論が、現状維持であれば現状維持を採らなければならないし、革新的であれば、革新を採らなければなるまい。何故ならばそれが祖国を救う為であり、而して祖国なくして国内の何もないからである。

 第三に、若し科学的に結論が出ても。其の実行を承知しないものがあるとすれば、どこかに利害が潜んでいると見なければならない。一億一心とは一億が共同に苦難を嘗めることであり、而(しか)も平等に苦しみ悩むことである。此の危機に際して、国内の或る一部のものが利益に執着し、為に祖国の危機を脱し切れないとすれば、一部のものが自己の利益の為に祖国を犠牲にすることである。それならば一種の闇取引であり、スパイ行為であろう。是非曲直はここに至って明々白々ではないか。革新説が正しいか、現状維持説が正しいかは、以上のような過程で決定されるであろう。

 今暫く革新説が正しいとすれば、ここに二、三の問題がある。元来現状維持を固執する意見の人々には、今日の革新が未来永劫に継続するのではないかと云う、疑?(ぎぐ)の念が潜んでいるのではないか。それならば此の際にかような疑?を一掃することが望ましい、仮に革新案を採るとしても、それは祖国の危機を脱する為の非常対策であって、決して永久の対策ではない。革新の目的は祖国の運命を打開することであり、唯それのみでなければならない。

三 政府への進言(P.24)

従って祖国の危機が終わりを告げて、我々が安全を取り戻した後に、戦時の非常対策として行われた革新は、直に廃止されて原状に回復されなければならない。そして其の後に於いて、更めて輿論の動向により、平時の永久対策が攻究されなければならない。革新が実行されるにしても、唯祖国の大事の為であり、祖国が大事に臨む期間内だけである。此の点を明白にすることが、今日に必要なのではあるまいか。祖国の危機に際して、自己の利害に執着するのが誤りであると共に、祖国の危機を利用して、火事場泥棒を働くことも亦誤りであろう。

 革新に就いて更に一つ注意すべきことは、革新は赤のイデオロギーではないかと云う疑念である。後に触れるように、私は赤のイデオロギーに反対であるが、然し革新は戦争と同じように、夫れ自体は赤でもなければ白でもない。赤か白かの色分けは革新を行う当事者の動機であって、革新は赤のイデオロギーから行われることもあろうし、反対に白のイデオロギーから行われることもある。革新は必ずしも赤のイデオロギーに限られたことではない。赤の国であろうと黒の国であろうと、祖国の危機を脱する為に、革新は至る所に行われている。之を当然に赤と同一視するのは、無用の疑惑である。若し革新が必要とされるならば、それは祖国の為と云う動機でなければならない。革新と赤との聯関(連関)を断ち切ることが、今日の場合に必要なことであろう。

 最後に政府当局に切望したいことは、当局が国民の目標を与えて、国民を指導することである。今日の日本国民ほど、動向の目標に飢えていることはなく。指導力を要望していることはない。私は政府が全く目標を与えなかったと云うのではない。「八紘一宇」個(もと)より結構であり、「東亜共栄圏の建設」尚個より結構である。唯私の云いたいのは、其の時々国内上国際上の変化に応じて、国民の向う所を知らしめ、鼓舞激励をすることである。ヒットラーにせよ、ムッソリーニにせよ、或いはチャーチル、ルーズベルトにせよ、各国は夫々の指導者を持っている。

三 政府への進言(P.25)

彼らは全国民の愛国心に愬(うったえ)て、胸から胸へと情熱を攪(掻)き立てているではないか。之が一億をして一心ならしめる最も肝要は方法である。

 文字による指導よりも、言語による鼓舞激励が望ましく、個性に乏しい形式的の挨拶や美辞麗句の羅列よりも、国民をして指導者の肺腑より湧き出る気魄と情熱に接せしめて欲しい。不言実行は有言不実行に勝ることは勿論であるが、有言実行は更に勝り、今日のような時局には、有言が既に一つの実行である。長期に亘って生死の間を引率するには、何よりも力ある弁論により、国民の胸奥に愬えることが望ましい。

 政治的の指導と相並んで必要なのは、道徳的の指導である。今日の日本国民に道徳的の緊張さの足りないのは、政治を裏付ける道徳の声が欠けているからである。さらばとて型に嵌った道徳学者の説教を聴こうと云うのではない。然し戦いに勝つ最大の条件は、外交上の駆け引きでもなければ、武器軍艦の優秀さでもない。唯人である。すべては人に始まり人に終わる。而して人は結局に於いて良心によって動くのである。今日此の国に憂国の情熱を吐露して、国民を奮起せしむる道徳の声がなければならない。

 政府は官立大学に無数の学者、思想家、を擁している。之らの人々を総動員して、国民の道徳的指導者たらしめる意向はなかろうか。更に民間の学者、思想家、宗教家、教育者を招集したならば其の員数の乏しきを憂えることはなかろう。之らの人々が祖国の大事の奮って起つことが出来ないとすれば、我が国の学者、思想家、教育者に、何らかの欠陥があると云わなければならないが、其の人々にしてすらがそうだとすれば、まして国民一般に道徳的の指導を必要とすることが分かるではなかろうか。

 前に書いたウィルソンの十四箇条の演説を聴いたときの私の感銘は、今も忘れることが出来ない。其の夜大劇場で私の求めたのは、ウィルソンの風貌でもなければ、其の演説でもなかった、唯いかに米国の聴衆が之を受け入れるかと云うことであった。四割が男性六割が女性で而も老人が多かった。ウィルソンの演説は人を泣かしめる感傷的な内容ではなかった。聯合国は何を目的として戦いつつあるかを述べたので、冷静な理論的な演説であった。

三 政府への進言(P.26)

だが数千の聴衆のすべてが、泣いて咽んだ。聴衆は自らの云わんとする所を、此の指導者が道破して呉れたのを喜んだであろう。そこに政治的指導者を兼ねた道徳的指導者があった。私は其の情景を眺めながら考えた、いつか此の国と祖国日本が戦端を交える時があるかもしれない、其の時に此のような指導者と聴衆をとを敵とすることは容易ではないと。今日の日本に欲しいのは、政治的指導者にして同時に道徳的指導者である。其の二つが一人に兼ねられないならば、其の一つの宛(あて)でもよい。今日ほど国民が指導者に飢えている時はない。

四 国民への警告(P.27)

 今や我々の同胞は東亜の各地に於いて、苦しい戦陣の生活を続けている。私の昔の学生も、或いは満州に北支に或いは南支に海上に散在して屡々(しばしば)陣中生活の消息を送って来る。其の幾人かはノモンハンの戦争で戦死した。之らの手紙の一様に書いていることは、いざ敵陣と対戦する間際には、胸中何ものもなく、全く無念無想だと云うことである。彼らのすべては親や兄弟を残し、或るものは妻や子を置いて、異境に命を賭して戦っている。彼らは成し遂げたいと思う仕事も残っていよう。将来に憧れていた幻影もあったろう。故郷に残した両親の身を考えては、戦死の報を聞いた時の悲痛を思いやるだろう、愛する妻子を寡婦孤児とすることを思っては、断腸の苦しさがあろう。だが彼らの目標は唯君国の上にある、此の一念の前に、他の一切のものが淡雪の如く消える。彼らは「個」を捨てて「全」に生きようとするのである。ここに自己犠牲と云う言葉の最も端的な実例がある。屡々哲学者は戦争は道徳心を昂揚せしめると云うが、其の意味する所はここに在るのであろう。戦争の国民の覚悟は、戦場に臨む武士の一念を、銃後に生かすにある。

 昭和六年満州事変が始まってから、非常時と云う言葉が語られた。昭和十二年に支那事変が起こってから満三年半、我々日本国民は戦争を続けて来た。之を外国から見たならば、日本の団結の鞏固(きょうこ)なのを羨むに違いない。然し之を内部から眺めた場合に、国民の態度が完全だと云い切れるだろうか。此の戦争の意味を充分に理解しているかどうか。誰から云われないでも自発的に動いているかどうか。いかなる事が起こっても、微塵も揺るがぬ確信を持してるかどうか。私は之らの点に就いて多少の疑念を感じる。一言にして云えば、今日の日本には道徳的の弛緩がある。

四 国民への警告(P.28)

更に極言すれば道徳的の頽廃がありはしまいか。今までならばそれでもよかった。然し度々私が繰り返したように、我々の前途は万一一歩を誤れば、深淵に陥るかもしれない危機に臨んでいるのである。英国の市民は毎日独逸空軍の来襲を受けているが、我々の頭上にこそ爆弾が落ちないが、英国よりもより深刻な危険が、我々の前途に待ち構えている。此の時に国民の態度が之で果たしてよいであろうか。今こそ戦場に臨む武士の一念を、身に体して味わうべき時である。

 戦場に臨む軍人には、自己犠牲の精神がある、「全」の為に「個」を捨てていると書いた。同じ国民が戦場に出た時に、自己を犠牲にすることが出来て、銃後にいる時には会社の利潤を少しでも多く取ろうと考えたり、闇取引を営んだりするのは、一体何処に原因があるのであろうか。抑々(そもそも)軍人としての自己犠牲が本当なのか、或いは銃後の金儲けの方が本当なのか。ここに我々の考慮すべき問題があると思う。或る人は云う日本人は本来そうでなかったが、西洋思想の影響を受けてからそうなったのだと。

 私は我々同胞が本来利己的であり実利的であるとは思わない、従って軍人に於ける自己犠牲が例外的なのだとは思わない。我々には「個」を殺して「全」の為に生きようとする美しき魂があると思う。そして其の多くの事例が、我が日本の歴史を花の如く飾っている。然し此の魂は日本国民が血族を以て繋がる大家族のようなものであることから来たので、極めて自然的に成長したのではないか。自然的であるから、理性を以て理論的に組織化されていない。そこに自然的の強さがあると共に、不統一の混乱があるのではないか。戦場に臨む軍人は、永きに亘る伝統と経験を経て来ているから、立派に自己を犠牲にすることが出来るが、その同じ魂を現代の複雑な諸生活に余す所なく適用するだけの伝統と訓練とが行われていない、そこで他方に利己主義だとか実利主義だとかの非難が現れるのであろう。戦場の自己犠牲が証明するように、我々には「個」を捨てて「全」に就き得る素質はある。

四 国民への警告(P.29)

唯此の素質はあら部面に拡充されるに至っていないのである。あの戦場の自己犠牲に、我々は同胞の魂に無限の希望を抱くことが出来る。残る問題はあの魂を発展し強化し拡大するに在る。

 若し我々の生活に見受けられる利己主義や実利主義を、西洋思想の影響だと思うならば、非常な誤解であろう。私の経験した所では、西洋の方が却って自己犠牲と自己主張とが、合理的に調和していて、矛盾の醜さが現れていないと思う。米国人を拝金主義とか弗(ドル)崇拝とか云うけれども、彼らは賛ぜんが為に儲ける。儲けて之を公共の為に使用するので、単に金を尊重するのではない。我々が受け取らない場合に、彼らが金銭を求めるのは唯生活の習慣が異なるからで、米国人から見れば、我々の方にも拝金とか利己とか思われる節があるかもしれない。前大戦の末期に私は米国に滞在していたが、当時実業界の人材が沢山政府の重要な地位に就いていながら、官吏(かんり)としての俸給を受け取らないで、唯一弗だけを貰うことにしていた、そして之を「一弗税」と云っていた。一弗で一生懸命に国の為に働く義務と云う意味である。又十年ほど以前に、英蘭(イングランド)銀行の金の準備額が減じて来たことが新聞に出ると、政府が命令するのでもなく新聞が宣伝するのでもなく、国民の外国旅行がピタリと止まって了(しま)った。金を外国へ流出させまいと云う心遺(こころやり)である。個人主義だと云われ拝金主義だと云われる国々が、こうした有様である。無論西洋と云っても沢山の国があり、国民と云っても何千万もいるのであるから、どこに何があるかは保証は出来ないが、西洋から利己主義や実利主義が流入したと云うのは、事実に反している。

 若し西洋からの影響と云うならば、資本主義の制度に伴う所謂資本主義精神、即ち利益の為に利益を追求すると云う心理から、利己主義や実利主義が育てられたと云えるかも知れないが、之とて徳川時代の町人根性が其の儘に残ったとも云えるので、武士階級の間には、武士道と云う道徳律があったが、武士ならぬ町人には、特殊の道徳律がなかった。そして自分の運命は全く武士階級の意の儘に左右されたことから、卑怯卑屈と云う悪徳も育てられ、利己主義、実利主義も芽生えて、それが資本主義精神によって助長されたと云えるだろう。然しかかる歴史的の詮議立ては、今日の時勢に必要ではない。

四 国民への警告(P.30)

要するに「個」を捨て「全」に生きんとする軍人の精神、我々祖先を支配した武士道の精神、それを我々のあらゆる生活に適用することが、最も切実に要求されているのである。

 本来我々の生活には、「個」の主張のゆるさるべき部分と、「全」の為に「個」を犠牲とすべき部分であり、いかなる家屋に住んで、どんな食物を食い、どんな本を読むか等々は、「個」の許さる部分である。従って我々の生活から「個」の部分を全的に抹殺するのは、不正当でもあり、又不必要でもある。然し非常緊急の時局に際しては、「全」の為に「個」を犠牲とする部分が、極度に拡張されて、「個」の許さる部分が縮小するのは、当然過ぎるほど当然である。何故なれば、「全」の為に尽くすことなければ「全」が消滅するかも知れない、そして「全」なくして「個」の生活も残らないからである。今や祖国と云う「全」が重大な時期に際会している時に、「個」に執着して「全」を顧みないならば、「全」は果たしてどうなるのか、「個」も果たしてどうなるのか。

 我々の周囲に屡々聞く声は、誰が此の戦争を始めたのかと云うことである。私は十数年前から幾度も書いたことであるが、事前には何を云おうとも、一旦政府が祖国の方向を決定した以上は、我々は之に心から服従して、一意祖国の為に働かねばならない。所謂「一旦緩急あらば我々は財を捨て命を擲(なげう)たねばならない」のである。今日は誰が戦争を始めたかを詮議するほど、呑気な余裕のある時ではない。誰が戦争を始めようとも、始まったことは我々全体の責任である。若し戦争に反対であったならば、戦争を阻止する運動でも起こすべきであった。それをも為さないでいたことは、暗黙の間に自らも戦争の開始を承認したことになる。其の後に人の陰で不平を云うのは卑怯であり卑劣だと思う。誰が戦争を始めたにせよ、我々には共同の責任がある。況や徒に過ぎ去ったことを頭に置くのは、愚でもあり浅墓でもある。我々は過去を顧みずして、唯前方のみを眺めなくてはならない。

四 国民への警告(P.31)

国民の一部を咎めないで、国民一丸となって前進しなくてはならない。然らずんば我々の前には、唯亡国の一途あるのみである。

 又往々にして幾人かの集合で耳にするのは、まるで他人事のように祖国の運命を論じたり、政府の政策を批判したりすることである。だが祖国は我々の祖国ではないか、祖国の運命は我々の祖国の運命ではないか。祖国を他人事のように考えるのは、どうした訳であろうか。我々はお互いに祖国を愛し祖国の為に憂い、生命を護る義務がある。又政府の政策にも議論の余地があろう、それを何らかの方法で政府に進言するのはよかろう、然し人の陰で自国の政府を非難した所で何になろうか。政府は誰の政府でもない、我々日本国民の政府なのである。政府を非難するのは、自らの手で自らの頭を打つと同じではなかろうか。私はこうした集合の際の言葉の中には、自らの責任を自覚しないで、責任を他に転嫁して自らの責任を回避した積りである心理があるのではないかと思う。それならば誠に許すべからざる無責任である。なるほど幾人かの人々が、共に国事を憂いて談論することはあり得る。其の場合には、談ずること自体が、憂国の余り、迸(ほとばし)り出るのであるから、一座に愛国の雰囲気が漲るだろう、それならば各々(おのおの)の生活を緊張させる効果がある。然しあの集会の席上に屡々見受ける談話は、之と全く違い、国事に冷淡であり無関心なればこそ、ああした談話が洩れるので、聞くものすべてが白々とした冷やかものを感じて別れるに過ぎない。祖国を論じたり政府を批判する其の人は、自分の職場では微塵も指を染めさせないだけのことをしているかと云うに、決してそうではない。其の人が批判する其の言葉が、正に其の当人にこそ的確に該当すると思われるほど、当人の職場は無責任で投げやりである。云う必要のあることは、我々をして男らしく云わしめよ、然し多くは唯黙々として、自己の職場を誠実に守らしめよ。一億の国民皆かくの如くであれば、ここに祖国は全きを得る。

四 国民への警告(P.32)

 政府は誰の政府でもない、我々日本の政府である。今日の我々にとって必要なことは、我々日本政府を信頼して、之に一切を任せることである。個(もと)より政府当局は国民の信頼に背かないだけの覚悟を必要とするが、危機存亡の場合に政府に対する不平を漏らしたり、暗黙の間に反抗の態度を採るほど危険なことはない。私は平常無事の場合でも、会議などで自分の所信を忌憚なく云うことは必要であるが、一旦多数決によって会議体の意思が決定された後には、男らしく快活に之に服従すべきだと思う。多数決で採決が為された後でも、反対の態度を持続して、何やかやと決議の実行を邪魔するなどは、男らしくない卑怯な性格である。多数の決定には服従することが会議の規約であり、自分が多数派であった場合には、多数決を飽くまで押し通して置きながら、一旦自分が少数派になった時には、何とか理窟を付けて多数派に反抗するのは、会議の規約を無視することであり、それは規約に服従を誓った自分を、自らが軽視することではないか。

 今日は昔のように党派が対立して、会議で盛んに議論を闘わすことはなくなった。然し会議に於いて発揮される男らしさや自己尊重の心は、依然として必要とされている。政府当局は我々が戴いた政府当局である。之から後の国情は、益々政府の独裁的傾向を強めるだろう。それは非常時局の場合に当然である。いかなる民主主義的な国家と云えども、戦争中に独裁政治の布かれない国はなかった。平生無事の際に、衆議を重んじ公論に決する理由は、即ち非常火急の場合に独裁的傾向となる理由である。我々の政府を信頼し其の命令に服することにならないと、将来どんな大事が起こらないとも限らないと思う。

 我々が亡国とならない為に、一方の血路を切り開こうとすれば、我々の日常の衣食住は、今とは比べものにならないほど窮乏して来るだろう。又農工商等の実業に従事しているものは、段々自由が利かなくなって、破綻が現れて来ないとも限らない。然し前大戦中に米国はあれほどの物資の豊富な国でありながら、パンや珈琲や砂糖を極端に制限していた。それから見ると、今までの日本の統制などは、物の数にも足りないほどである。若し我が国が窮乏に陥った場合には戦線に在る渉士の生活を思い起こそう。幾日も幾日も米なく水もない日の続くことがあり、寝るに屋根もなく蒲団も夜具もないことが多い。

四 国民への警告(P.33)

傷ついて血が迸(ほとぼし)りながら、軍医も看護卒も待てども来ないのが普通であると聞く。之に比べれば、寝る家屋があり食う物もある。窮乏に堪え苦難を忍んで、戦場の武士の魂を我々の日常生活に生かしめよ。

 我々の前に考えられる危険の場合は、我々の日常生活が極度に窮乏した時か、敵の飛行機から空爆された時か、或いは我が軍の不利なる報知が来た場合かであろう。こうした時にともすれば、狼狽があり混乱がある。之に乗じて流言が飛び蜚語が舞う。之に敵国の陰謀も加わる。だが一人動けば二人動き、二人動けば三人動き、やがて百人が動き千人が動き万人が動くこととなる。各各が揺るぎなくたっていたい。そして祖国の旗の下に唯一人の如くに固まっていたい。

 前大戦の歴史を読むと、一方の国が非常に疲弊して降伏を申し出でようとした時は、必ず他方の国も忍耐の最大限まで来ていたことが分かる。勝敗は最後の五分間で決すると云うが、之からの戦争は、戦線にあろうとも銃後にあろうと、要するに意思の戦いであり、信念の戦いである。之からの日本にいかなる苦難が襲い来たろうとも、迷う所なく怯む所なく、飽くまで執拗に、最後まで歯を食いしばって、一筋の道を真直に進ましめよ。祖国の運命を疑う念の萌した時は、神の恩寵、天の恵み我に在りと信じて、巌(いわお)の如く屹然(きつぜん)として立たしめよ。

 我々は独逸及び伊太利と軍事同盟を結んでいる。昨年の九月此の同盟が成立するまでは、国内にも多少の異見があったであろう。然し我々は此の二国と手を握った。そして彼を助け彼が我を助けることを誓った。かくて我々は道義的義務を負ったのである。私は此の事実を重要に考えなければならないと思う。

 抑々同盟を結ぶのは、利害が共通だからであり、当然に日本も利する所あればこそ、二国に手を差し伸べたのである。然し既に同盟を結んだ以上は、我々は自分の利害に動かされて、道義的義務に背いてはならない。仮に同盟国を働かして、自らは濡れ手に粟を掴もうとしたり、他人の弱みに付け込んで之と手を切ろうとすることでもあるならば、それこそ日本は利己的であり実利的だと笑われるだろう。

四 国民への警告(P.34)

国際間の道義は地を払ったとも云えるが、それでも一旦手を握って運命を誓った同志に、信義を反する行為を犯したならば、日本の信用は永久に地に墜ちるに違いない。祖国の利害は一時的であろうとも、祖国の生命は永久無窮である。我々は祖国の名誉を傷を付けたくはない。否信義を裏切るのは、我々国民を道義的に堕落させることである。

 我々の祖先は戦場で自らを犠牲として、敵さえも助けたことがある。まして自己の利害の為に、信義を裏切った武士を、風上にも置けない腐れ者として爪弾きした。市井の無頼の侠客でさえも、仁義を立てた同志の為には、進んで自らを危険に曝した。日本は昨年九月の重大な道義に、自らを置いたことを、我々国民は一刻も忘れてはならないのである。

 我々は同盟国への信義に身を束縛せねばならないが、我々は徒に他国に依頼したり凭(もた)れかかってはならないと思う。人間は結局唯独りなのだ。それは個人に就いても国家に就いても同じことである。自らを信じ自らに頼るより外ない我々は、飽くまで自主的で自立的で独立独往の覚悟が必要である。固(もと)より同盟国との親善は望ましい、然し自ら気の付かない間に、同盟国に阿諛追従したり、媚態を呈したりすれば、親善が増すよりも、却って相手方の軽視蔑視を受けるかも知れない。他国に道義的であろうとする国家には、自然に自己の威信を傷つけないだけの矜持の心がある。

 我々は台湾で異民族に接触し、次いで朝鮮で更に満州で、異民族との交渉を持った。所謂東亜共栄圏の確立した後には、更に一層多くの異民族と接触しなければならなくなるだろう。其の場合に我々はいかなる心の用意を必要とするかは、将来の教育上の大問題であろう。戦争後のことを云わないにしても、現在でも我々の同胞は支那に於いて仏印に於いて、異民族との深刻な接触を経験している。それは戦闘と云う形式に於いてか、或いは通商と云う形式に於いてか、何れにしても軍の威力の下に接触している。戦争は殺し合いであるから、戦争は勝っても負けても、何らかの復讐を受けるものと覚悟せねばならないが、それでも接触の仕方如何に依っては、敵からも尊敬されることがないとは云えない。

四 国民への警告(P.35)

 私は日本で生まれ日本で育った或る英国人と話したことがある。其の人は文字通りの日本通であり日本贔屓であった。彼が或る年母国に帰って、知人と倫敦(ロンドン)の街を散歩している間に、急に雨が降り出した。其の時彼はどこかで傘を借りようと云ったそうである。知人は笑って、知らない人から傘が借りれるものかと云った。彼は倫敦の街を歩きながら、日本にいるような気がしていた、だから赤の他人でも傘は借りられるものだと思ったのである。彼は其の時ほど英国が呪わしく日本が懐かく思われたことはなかったと云った。我々の日本には、異国人をもこう思わせるものがあったのである。

 私は最近に関ヶ原の戦記物を読んだが、大谷吉継(よしつぐ)が味方敗北と知って、家来に命じて介錯させ、業病で爛れた首を敵の手に渡らぬように窃(ひそか)に埋めさせることとした。所で徳川方の武士が来て、家臣に槍を付きつけた。家臣は武士として頼むから、此の在処(ありか)を秘密にして呉れと云い、敵の承知するのを聞いて、喜んで敵の槍にかかって仆(たお)れた。徳川方で吉継の首を探しているのに、其の武士は恩賞も犠牲としても、頑として在処を告げなかった。家康は頼まれた信義に背かない武士の心事を賞めたと云うことである。武士として敵を信頼する吉継の臣、敵の信義を裏切るまいとして飽くまで頑張った其の武士、武士はかくありたきものと称賛した徳川家康。之が我々の武士道であった。こうした挿話は、日本歴史の中に無数に見出されるだろう。

 あの関ヶ原の挿話は、何を我々に語るであろうか。敵味方と別れて殺し合いながら、頼み頼まれるのは、敵味方の対立を超えた道義の世界で、お互いが結ばれているからである。彼らは現実に闘いながら、別の世界では互いに同志であった。恩賞を棒に振っても約に背くまいとするものや、敵将の首級を求めながら、約に忠実であることを賛美し得るものは、利害を超越した道義の上に立っていた。一言にして云えば、武士は武士として闘いながら武士のみでなく人間であった、

四 国民への警告(P.36)

そして相互の人間を尊敬した。更に別の言葉で云い換えれば、ここの人格の尊重があった。武士道は大和民族の中に、そして武士階級の間のみ守られたであろう。然しあれほど高貴な精神が、大和民族の中の一階級の間のみ、限定されねばならぬ理由はない。我々は新しい精神を発明する必要はない。問題は竿灯(かんとう)一歩進めて、武士道を異民族の間に徹底せしめるに在る。

 異民族即ち血液も言葉も風俗も文化も歴史も異なる民族を、いかに遇するかは容易な問題ではなかろう。机上の理論を直ちに適用できるほど、簡単な事柄でないことは分かる。私も支那事変の起こった年の暮れに、北支に短い旅行を試みて、支那民族の複雑さに驚いたことがあった。異民族にいかに対処するかは、日本の将来の大きな課題であり、東亜共栄圏が豊かな結実をするかどうかは、主としてここに係って来る。

 だがいかに民族が異なろうとも、結局に於いて人間である。闘いながら殺し合いながら、対立を超えた感情が皆無とは云えまい。況や平和の通商の場合には、一層人間としての同類意識がないとは云われまい。威厳と寛容とは併せ行なわねばならないが、此の二つは本来は同一のものの裏と表である。権力を盾として圧迫した異民族は、権力の退いた後は再び起き上がるだろう。自らが威武に屈せず富貴に淫しない偉丈夫は、威武を以て富貴を以て、他人を屈せしめようとはしない。日本国民が武士道を異民族にまで適用し得るかどうか、之が日本百年の大計であり、又東亜百年の大計である。

 人若し大和の国一円の古寺を巡礼するならば、そこに在る建築と仏像と絵画とに、驚愕の眼を見張らずには居られまい。法隆寺、薬師寺、東大寺、唐招提寺(とうしょうだいじ)、新薬師寺、法華寺(ほっけじ)などに見られる簡素と荘重、威厳と慈愛とは、我々をして千三百年以前の祖国に対して、粛然として襟を正さしめるものがある。之に儒教を入れ仏教を入れ、更に仏教美術を入れるに就いては、保守反動の反対があったに拘わらず、之を排して思い切り唐の文化を吸収した当時の大胆さは讃嘆の限りである。あの芸術を眺めて、我々の祖先の美術観照の水準が偲ばれて奥床しい。西洋が中世の暗黒時代に在った時に、日本はあれだけの芸術を生むことが出来た。

四 国民への警告(P.37)

固より実際に創作したものは、帰化人又は其の子孫であったろう。然し観照者なくして創作はあり得ない。西洋芸術の黄金時代と云われる希臘(ギリシャ)でさえ、創作者は奴隷に等しい工匠であったと云う。祖国日本への愛と敬とを育くもうと思うならば、大和一円の古寺を巡礼するに如くはない。我々の自信を強めるものがあの地方にある。

 鎌倉時代に我々は法然、親鸞、道元、日蓮の四人の仏教改革者を持った。彼らは北嶺比叡山に籠って、夜を日に次いで万巻の教文を読破し、骨を刻み肉を削ぐ難行苦行を敢えてした。北嶺こそ当時の学問の研究所であり、又修業の道場であった。然し彼らは旧仏教に別れて山を下り、新興仏教の旗を挙げた。其の後に於ける彼らの活動の、いかに逞(たくま)しくも凄まじくもあったことか。殊に日蓮に於いては、宗教的情熱は憂国の義憤と結ばれた。彼が「立証安国論」を掲げて、鎌倉政府の迫害に屈せず、飽くまで其の所信を貫いたのは、啻(ただ)に日本の宗教史上の緯績であったのみではない、我々の祖先の人格的強さを物語るものであろう。だが強かったのは、決して独り日蓮のみではなかった。あの優しい慈愛と聯想(れんそう)される親鸞でさえ、肉食妻帯を唱えては、南都北嶺の嫉視敵対(しっしてきたい)と戦った、そして遂に勝ち通した。彼らは何れも武士ならぬ武士であった。温和にして妥協性に富むと云われる日本国民の中に、あれだけの宗教的情熱とあの逞しい意思力とが潜められている。鎌倉時代の新仏教の使徒こそは、我々の自信を強めるものの一つである。

 明治維新の直前に、我々の祖国は独立を失うかもしれない脅威の下に立った。此の時の進路を何れに向けるかは、当時の指導者の頭を悩ました問題であったに違いない。だが反感や反撥を以て西洋に向かおうとしなかった。己の乏しさを見抜いて、謙虚に西洋の文化を入れて、西洋に追い付こうとした。維新前後から明治二十年まで、いかに日本は狂熱的に西洋の科学と社会思想と哲学とを吸収したであろう。東洋の或る国は排外排他の方針を採って、西洋の文化を入れまいとした。又或る国は西洋文化に圧倒されて、自国の文化を喪失した。然し我々の日本は其の何れも採らなかった。門戸を開いて西洋文化を受容しると共に、自国の特殊性を失わないだけの伝統を固執した。

四 国民への警告(P.38)

あの謙虚は自信があればこそ持てたので、自信と謙虚は、之も同一のものの裏と表である。

 自国の文化に自信を持って、西洋の文化を受け入れたのであるから、西洋文化の消化が一応の程度まで来ると、やがて日本固有の文化が、新装を凝らして逆襲に転じた。明治二十年から始まる文化運動は、帝国憲法と教育勅語の渙発(かんぱつ)を始めとして、儒教と仏教の復活、理想主義哲学の擡頭、日本古美術の復興、国民主義・国家主義の旗揚げに至るまで、すべて日本固有の文化の逆襲でないものはない。而も此の逆襲は日本従来の姿の儘ではなくて、一応の西洋文化を消化して、其の扮装を帯びての復活である。いかに狂熱的に西洋文化を受け入れても、我々は己れの地盤を失う事はなかった。明治思想史を研究して、前半期の西洋文化に対する謙虚と、後半期の日本文化への自信とを、具(つぶさ)に跡付けるものは、我々日本国民の驚嘆すべき受容力と、曲ぐべからざる強靭な伝統力とに、敬意を表せざるを得ないであろう。ここにも我々の自信を強めるものの一つがある。

 我々の祖先は決して単に外国の侵略を受けなかったと云う名誉の歴史を持つだけ ではない。我々の自信を強める数多くの事実を持つ。此の事実を背負うて我々の前 進を続くべきである。

 すべての国家は政治の中心を有する、政治の中心之を元首と云う。元首は血統を辿って歴代相継ぐこともあり、或いは一定の任期を定めて人民が選挙することもある。前者は君主国であり後者は民主国である。日本の元首は、天皇であらせられる。だが、天皇が万世一系の皇統を継承せられ、皇統の連綿たること二千六百年の永きに亘ったことのみが天皇が万国に優越せらる所以(ゆえん)ではない。実は天皇は日本に於いて啻(ただ)に主権者として権威の主体として政治の中心に立たせらるのみならず、我々臣民の道義の中心として臣民に臨ませ給うのである。外国の君主は臣民と利害が対立し、君主に圧迫搾取虐政の歴史があった。然し日本に於いて天皇は決して臣民と対立せられたことなく、圧迫とか虐政とかの事実は、日本の歴史の中には見出されない。天皇の聖慮は常に臣民の人格の成長の上に在らせ給うた。

四 国民への警告(P.39)

 明治天皇が明治二十二年発布せられし憲法の勅語には「朕祖宗(ちんそそう)ノ遺列(いれつ)ヲ承(う)ケ万世一系(ばんせいいっけい)ノ帝位(ていい)ヲ践(ふ)ミ朕(ちん)カ親愛スル所ノ臣民(しんみん)ハ即(すなわ)チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養(けいぶじよう)シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念(おも)ヒ其(そ)ノ康福(こうふく)ヲ増進シ其ノ懿徳良能(いとくりょうのう)ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ」と仰せられた。懿徳良能を発達せしむとは即ち人格の成長のことであり、康福を増進すとは人格成長の為の条件にたる康福を意味せらるものと拝察せられる。

 民の竈(かまど)の賑わうを喜ばせ給うた仁徳天皇が臣民の成長を御軫念(しんねん)あらせ給う如くに、歴代の天皇は臣民を民草と宣(のたま)わせられた。草の伸びるが如くに、臣民の成長を叡慮(えいりょ)あらせられたのである。而も此の臣民彼の臣民と云う特定の臣民ではない。数千万の臣民が一様に、天皇の聖慮の対象であった。之に対して臣民たるもの、誰か感謝し感激しないものがあろうか。況や後一代の天皇がかくあらせられたのみでなく、歴史を通じ万世に亘って、常にそうであった。かくして、臣民の感情は凝集して、崇敬の感情に化した。天皇は臣民の成長を図らせ給い、臣民は天皇に対して忠ならんこと願う。かくて日本に於いて天皇は元首であらせられるのみならず、国民の自然に流露する感情の中枢に立たせられ、而も臣民の感情は高められて、崇敬の感情となる。君臣のかくの如き関係、之が我が国体の精華と云う。

 祖国という言葉を聞く時に、人はともすれば抽象のもどかしさを感じるであろう。だが我々の祖国は天皇に象徴せられる。日本の歴史を通じて、祖国の危難が迫った時に、国民の眼は常に京都の朝廷を仰視した。我々が之からの荊棘(けいきょく)の道を歩むにつれて、我々の眼は幾度か天皇を仰視することがあろう。そしてそこに国民の結成が強められ、国民の前進が早められるであろう。

五 国内分裂を警戒せよ(P.40)

 前項の一節で、日本国民の前進の途上に警戒すべき場合が三つあると書いたが、それより更に警戒すべきものがある、それは左翼の煽動計画による国内の分裂である。人は或いは日本国民にはかくの如きは杞憂だと云うかもしれない、又或いは我が国には既に左翼は根絶されたと云うかもしれない。然しそれは余りに楽観に過ぎる。我々は未だ雨の降らざるに窓?(そうゆう)を繕い、天下の憂いに先立って憂えなけらばならない。

 ここに云う左翼とはマルクス主義者を云い、マルクス主義者であれば、それが共産主義者だろうと、社会主義者であろうと、何れをも包合するのである。私は前に小異を捨てて大同に就くと云い、和衷共同が大切だと云ったが、其の際に根本に於いて相容れない限りと制限を付けた。今日の危急存亡の時期に、国内は一致団結して協力せねばならないが、不幸にしてマルクス主義者は其の国体観に於いて、其の国家観に於いて、其の戦争観に於いて、其の法律秩序に対する見解に於いて、更に其の道徳に対する立場に於いて、根本的に相容れないものである。今こそ彼らは口を緘(かん)して沈黙を守ろうとも、それは主義主張を捨てたのではなくて、時が不利だからである。やがて好機至れば必ず猛然として起つに違いない。猛然として起つほどマルクス主義者の数は多くないと思うならば、それは非常な誤りである。其の数はいかに尠かろうとも、国民が迷い惑うて浮足の立つ時に、其の煽動が案外に効果を奏するかも知れないし、今でも洞ヶ峠に立って日和見をしているものは、決して尠(すくな)くはないからである。

 ヒットラーは一九一八年の独逸の崩壊を回顧して、「我々が戦線で祖国の為に闘っている時に、マルクス主義者は匕首(あいくち)を以て我々を背後より刺した」と云う。

五 国内分裂を警戒せよ(P.41)

そこで私は前大戦の終局に於ける独逸マルクス主義者の運動に就いて語らねばならない。大戦前に社会民主党は議会に議席110を持ち、独逸最大の政党であった。固より小党分立の独逸議会であるから、110の議席は、全議席の四分の一に過ぎないが、それでも最大の政党であることが出来た。社会民主党は戦争以前には色々の大会で、戦争反対の決議を発表していた。一九一四年八月四日カイザーは伯林(ベルリン)王宮の露台から、民衆に戦争鼓舞の演説を為し、最後に「朕は独逸の政党の別を知らない。朕は唯独逸人であるを知るのみ」と結んだ。従来は社会民主党に対して反対して来たが、今日では社会民主党に対して差別待遇をしないとの意味であって、戦争に対するマルクス主義者の援助を求めたのである。社会民主党は従来の大会で戦争反対の決議をしたにも拘わらず、愈々戦争が勃発するや、大多数は戦争に賛成し、十四名の反対者はあったが、党議を以て戦争賛成と決定し、八月四日の議会での軍事予算の協賛には、十四名の退場者を除き、党は満場一致を以て予算に賛成投票をした。ここに注意すべきことは、従来戦争反対を唱えたものが、「城内平和」を唱えて賛成に変化するほど、始終言説と実行とが矛盾し豹変していたこと、賛成者の中には戦争中こそ革命の好奇なるが故に戦争に賛成したもののあったこと、十四名の反対者は其の後に於いて漸次増加する傾向があったこと等々である。

 戦争最中に反対者の数は年毎に増し、遂に一九一七年の四月には「独立社会民主党」を組織するまでになった。然し各方面の戦勝の赫赫(かくかく)たる間は、民衆は動揺の色なく、マルクス主義者も指を染める余地がなかったが、一九一八年九月西部戦線の後退するや、マルクス主義者の活動は現れ出した。十月五日マックス公がウィルソンに休戦提議を為さざるを得なかったのは、かかる国内の状勢を見たからである。十月十三日キールの軍港に暴動が起こり、次いで十一月七日ミュンヘンに蔓延して共和国が成立し、同九月伯林(ベルリン)に大罷業(ひぎょう)が起こり、社会民主党が政権を執るに至った。休戦条約が結ばれたのは、十一月十一日であったが、独逸は条約の峻厳さなどを考える余裕さえなかった。国内分裂して思いを祖国に致すことが出来なかったからである。

五 国内分裂を警戒せよ(P.42)

ヒットラーが背後から匕首を以て我々を刺したマルクス主義者と憤(いきどお)ったのは、こういう事情を云うのである。マルクス主義者は政権を握ったものの、それ自身が分裂不統一であったから、敗北後の独逸を安定せしめることは出来なかった。マルクス主義者は多数派社会民主党と独立社会民主党と共産党との三派に分かれ、一九一九年一月五日の伯林の暴動で、後の二つの党は共同したが、多数派社会党のノスケの辣腕により鎮定され、多数派の勢力は確定したものの、独逸は依然として安定することは出来なかった。一九一九年六月独逸がヴェルサイユ条約の桎梏を受けねばならなかったのは、独逸に一致結束が欠けていて、外に対抗する力がないことが、聯合国に見透かされていたからである。独逸はウィルソンの十四箇条で夢を描いて幻滅の悲哀を嘗めたが、独逸をして夢に縋(すが)らしめたのは、マルクス主義者による国内の分裂混乱であった。

 だが独逸の分裂は大戦直後のみに止まらなかった。議会には依然少数党が対立して中心がなく、多数党の社会民主党は共産党と相争い、紛争と政権の移動とが絶えず繰り返され、一九一九年から一九三二年に至る十四年間に、内閣の更迭は二十回に及び、独逸が敗北の後を受けて、逸早く再建に向かわなけ向かわなければならなかった際に、之だけの無駄な紛糾を敢えて続けていた。若し独逸にして生きる希望があれば、此の状態に放任することは出来ない。ヒットラーの「国民社会主義運動」は此の心理に乗じて、燎原の火の如き勢いを以て独逸全土に蔓延した。一九一九年ミュンヘンに「独逸労働党」なる団体があった。党員は僅か六名に過ぎず、之に第七番目の党員として加入したのがアドルフ・ヒットラーであった。翌年党名を「国民社会主義独逸労働党」と改め、爾来一九三三年の総選挙に投票数千七百万を獲得するまで、僅かに十四年間にかくも驚嘆すべき党勢の拡張を為し得たことは、世界政党政治史上の奇跡であった。ヒットラーを成功せしめたのは、独逸が復興の為に指導者を求めたからに依るが、更に其の原因を追究すれば、マルクス主義者に依る独逸の分裂が、国民の忍耐の飽和状態に達していたからである。春愁の筆法を用いれば、マルクス主義者はヒットラーを成功せしめたことになる。而してヒットラーの弾圧の下に、彼らは自己の墓穴を掘ったのである。彼らの運命がどうあろうとも、それは我々の関する所ではない。

五 国内分裂を警戒せよ(P.43)

然し我々の看過してならないことは、マルクス主義者が独逸を崩壊せしめたこと、独逸をして過酷な条件の下に立たしめたこと、十四年間無用の浪費と混乱を招いたことである。殷鑑遠からず独逸に在る。我々日本国民は独逸の轍を踏んではならない。

 人はマルクス主義の名を聞く時に、直ちに共産党のみを聯想するかも知れない。そしてアジトを襲われた時に、ピストルを乱射する暴力団体を思い浮かべるかも知れない。だが之だけがマルクス主義者ではない。共産主義者の外に社会主義者がある。後のものは一応は共産主義者の如くに所謂実践を企てないかもしれない。然し双方は其の国体観を同じくし、その国家観を同じくし、法律秩序に対する立場、道徳の基礎に関する立場を同じくする。唯二つの異なるのは、差当りの社会に働きかける戦術のみである。従って社会民衆が迷い惑う時が来れば、社会民主主義者の戦術は変化して、共産主義者と同一行動を採ることはあり得るし、恐らくは其の場合は多いであろう。何故ならば彼らが共通に持つ思想体系の中には、法律秩序に対する尊重もなければ、自己を抑止する道徳的義務の原理もないからである。社会民主主義者は状勢の如何によりて、いつにても共産主義者に変化し得るマルクス主義者である。今後の日本に於いて特に注意を怠ってはならいのは、マルクス主義者の中の社会民主主義者である。

 我々は往々にしてマルクス主義者の間に、転向が行なわれたと聞く。然しマルクス主義者の如く世界観人生観に基礎を置く思想体系から、一朝にして根本的に正反対の思想体系に飛躍し得るとは考えられない。若し転向したと云うならば、之らの基礎は依然として元の儘として、唯国体に対する見解を改めたとか、日本の特殊性を認識したとか、戦術を訂正したとか云うことであろう。然しマルクスの世界観人生観を其の儘にして置いて、その基礎の上に立つ諸点を訂正したとしてそれが何になろうか。やがて社会情勢が変化すれば、再び元に戻るのは、火を見るよりも明らかである。何故ならば、其の転向した諸点と、元の儘に置いた基礎とが本来矛盾しているのであるから、矛盾を犯し続けない限りは、本来の姿に返って再転向するのが当然だからである。之を真実の転向と解釈するのは、余りに好人物過ぎるし転向だと主張するマルクス主義者は、余りに狡猾過ぎると思う。

五 国内分裂を警戒せよ(P.44)

 だが私のここに切言したいのは、転向の道徳性である。マルクス主義者は或いは実践運動を企てて、国家の法律秩序に挑戦した。或いは官市立の大学の教壇から学生に講義し、或いは少人数の集会で青年をマルクス主義へと誘引した。更に或いは著述によってマルクス主義を宣伝し、或いは総合雑誌にマルクス主義の評論を書いたのである。彼らは社会民衆を啓蒙し、他人の子を教育した。武人が祖国を守る為に戦場で仆れるが如くに、教育者は自己の主義主張に対して言責を負わねばならない。従来の主義主張が誤謬であったと云うなら、男らしく清算するのはよい、然し公然と社会公衆に陳謝しなければならない筈である。私はマルクス主義者の所謂転向書なるものを瞥見(べっけん)する機会を持ったが、そこに現れている転向理由なるものは、殆ど採るに足りるものでなく、常識あるものならば、始めから何人も気付いていたことを、今更に列挙しているに過ぎないのである。当然に判断し得べかりしことを判断し得ないで、マルクス主義を教壇と評論雑誌から教育して置きながら、一朝にして曾ての主義主張が誤謬であったと云う。抑々何の面目があって世人学生に見(まみ)えるのか。私は転向者の教育者としての良心を疑わざるを得ない、而して之を怪しまない社会公衆の良心を疑わざるを得ないのである。

 そればかりではない、社会民主主義者が教壇や雑誌から、マルクス主義の教育に熱心に執着していた時に、彼らは学界思想界の寵児であり人気役者であった。マルクスを引用しないものは、学者でも思想家でもなく、唯反動とか御用学者とかの汚名を浴びて葬られたのである。共産党の実践運動には当然に法律の制裁を受ける覚悟を必要とした。尠くとも共産主義者には自己の主張を実践する為に、自己の運命を犠牲とする男らしさがあった。所がマルクス的社会民主主義者は学界思想界の大勢を背景として、犠牲を賭することなしに、マルクス的教育を為し得たのである。当時に於いてマルクス主義者に反対するには、大勢に反抗する勇気を要したが、マルクスを賛美することは、啻(ただ)に勇気を必要としないのみか、大勢に順応する気楽さがあった。かかる状勢の下に彼らがマルクス主義者となったに就いては、其の動機の純粋性を疑わしめるのであるが、其の試練は大勢が不利に変化した時の彼らの進退にある。

五 国内分裂を警戒せよ(P.45)

所が昭和五、六年から十年に亘って、日本の学界思想界が徐々として変化するや、彼らは忽ちに転向し、或いは口を拭うて、昨今は新体制を謳歌している。ここに我々の理解し得たことは、彼らがマルクス主義を信奉したことの軽率さと、之を弊履(へいり)の如くすてる端(はした)なさである。信奉したことが軽率であったから、之を捨てることも容易であったのかも知れない。然し許し難いのは、彼らの学者としての軽率さと、教育者としての無節操とである。かかる人々から之れ以後、社会は何を聴こうと云うのであろうか。若し日本の社会に鋭き良心があるならば、社会は之に対して厳然たる批判を持たなければならない。

 然し之だけならば、問題は学界、思想界、教育界のことに止まり、敢えてマルクス主義に限らず、社会の批判を浮くべきものは他のもあろう。然し之からの日本にとって、より重要なことは、マルクス主義者が今でも国民の一部に残っている事実である。往年のマルクス主義者は、或いは転向を誓い、或いは口を噤んで、今や右翼の陣営に潜入していることが、先ず注意されねばならない。凡そ今日ほど右翼と左翼の区別の明白を欠くことはない。木下半治氏の「日本国家主義運動史」を読むならば、今日の右翼のスローガンが、左翼と類似していることに驚くだろう。唯国体の一点を除けば、左翼は右翼に紛れることが出来るのである。或いは民間の調査所又は研究所の中に入り、或いは今も尚官私立の大学の教壇で教鞭を取るか、又著書論文を発表している。勿論今日の時勢を慮って、露骨にマルクス主義を教育してはいない。然しマルクス主義の世界観、人生観、歴史観は捨てないで、此の基礎の上に立って、社会主義の分析を企てるか、歴史の研究をするか、或いは全く顧みて他を語っているのである。然し講義を聴くものも、著書を読むものも、それがマルクス主義的であることを知り、云わずして隠されている所にマルクス主義を探って、窃(ひそ)かに満足しているのである。端的にマルクス主義を説かないで、而も陰約の間にマルクス主義を匂わせる著書が、今でも盛んに読まれているのである。

 更に進んで考慮せねばならないのは、マルクス主義の及ぼした影響である。マルクス主義の如くに、世界観人生観までを包合する思想体系は、之と厳然として対立する世界観人生観を信奉しない限りは、多かれ少なかれそれからの影響を受けざるを得ない。

五 国内分裂を警戒せよ(P.46)

 それならばこそ私は、十数年マルクス主義を克服する惟一つの路は、マルクス主義に対立する思想体系を樹立することだと、切言し続けたのである。だが其の後に至るまで、何が樹立されたであろうか。対立する思想体系を信奉するものだけが、真にマルクス主義者でないと云い得る。それでない限りは、マルクス主義はどこかに潜んで、やがて勃然として現われて来るのである。今日の日本の二十年代の末期から、三十年代の青年中年の人々を通じて、少なかりともマルクス主義の影響を受けていないものはいない。殊に都会におけるインテリ層に於いてそうである。今日のインテリ階級が時局に冷淡だとの非難は屡々耳にすることであるが、それはインテリの中にマルクス主義が潜在しているからである。

 マルクス主義の及ぼした影響の中で、最も注意すべき点は、それが青年殊にインテリ層の性格に及ぼした弊害である。マルクス主義の哲学が唯物論に在る為に、其の影響を受けたものは、社会が必然によりて動く、人間の意志は之を如何ともすることが出来ないと見る。ここに於いてか、恰(あたか)も自分のみは社会の埒外に立つかの如く看做して、社会の進行を袖手(しゅうしゅ)暴漢しようとする。自らが率先して身を挺して、社会の進行を早め又は止めようとする気魄も情熱もない。のみならず、他人が体当たりに真剣に行動しているのを見て、冷やかに局外に在って嘲り笑う。道徳は其の時の社会関係によって変化すると考えるから、道徳による厳粛な義務の自覚がない、かくして誠実を欠き真摯に乏しく、虚偽の言を弄することを意に介しない。一定の道徳を持たないから、常に手段を目的の為に正当化しようとする。凡そ之らの性格は明らかに道徳的廃頽でなくて何であろうか。道徳的廃頽とは窃盗とか収賄とか遊蕩とかを意味するばかりではない。之らの悪徳は道徳を承知しての上での悪徳であるが、前に列挙したような性格は日常の平穏無事の時代でも、固より好ましくないが、此の非常緊急の危機に於いて、最も好ましからざる性格である。

 だが人間である限り、かかる道徳的廃頽を全身的に甘んじられる筈がない。殊に まだ純心さを失わない青年時代に於いてをや。

五 国内分裂を警戒せよ(P.47)

さればとて進んで之を清算するだけの勇気もなく決断もないから、依然として元の木阿弥である。そこで一人の人格の中に、凡そ異なる二つの性格が対立し、何れが勝とも定めない分裂不統一の性格が生じる。之が性格的破綻者である。

 私が前項の国民への警告として書いたことを、ここに思い返してみると、祖国の運命を他人事のように傍観していること、自分の政府の政策の陰口を云っていること等々、之らすべてがここに挙げたマルクス主義からの影響と、符節を合わせたように一致するのが分かろう。国内に左翼の残存していること、既に今日の祖国にとって、由々しい大事であるが、マルクス主義からの影響を考えると、今日の危機に最も適応しないものであり、今日の危機に有害であることが分かる。

 啻(ただ)に今日に有害であるのみではない。未来に或いは起こるかも知れない祖国の混乱期に、マルクス主義者は背後から匕首を以て同胞を刺すかも知れない。今日の日和見連中は其の時、マルクス主義の好機到れりとばかりに一斉に洞ヶ峠を下るかもしれない。私が祖国の未来の為に憂慮に堪えないのは、此の一点である。和衷共同は固より望ましい、だが此の点に就いては断固たる批判を持たねばならない。

 政府当局はかかる場合を予想して、用意に手落ちのないことを信ずるが、政府当局のみならず、国民も亦用意を怠ってはなるまい。マルクス主義者の数は全国民に比べれば、云うに足らない九牛の一毛に過ぎない。だが問題は数ではなくて質である。国民の大部分が己を持して動かないならば、マルクス主義者の蠢動する余地はない。いかなる事態が起ころうとも、国民をして一致団結せしめよ、而して左翼の煽動に乗ぜられること勿らしめよ。

 マルクス主義者の数は尠くして、国民の大多数は勿論之に反対だとすれば、問題は豪も残らない筈であるに拘わらず、過去に於いても現在に於いてすら、必ずしもそうでないのは何故であろうか。それは一言で云えば、マルクス主義反対者の中に、之を圧倒するほどの気魄と情熱がないからである。

五 国内分裂を警戒せよ(P.48)

若しも一般の学者思想家にして、一道の気魄と情熱とが余りあったならば、往事に於いてマルクス主義をして、あれほど跳梁跋扈はさせなかったであろう。然るに少数の例外を除いては、マルクス主義旺盛の時代に、我が国の学界思想界誠に寂として声なかったではないか。然し私は敢えて過去をとやかく云おうと云うのではない。私の云わんと欲すのは、寡って然りしが如くに、現在此の祖国に危機に於いて、依然として学界思想界は寂として声挙がらないと云う一言である。私がかく云えばとて、固より自然科学者や社会科学者が、其の専門的の技術を以て、祖国に力を致していることを軽視しようと云うのではない。だが専門的の技術や知識は、いかに必要であろうとも、それだけが祖国に対する奉公のすべてではない。殊に身を学問と思想と教育とに奉じるものは、此の外に奉公の道がなくてはならない筈である。云うまでもなく、学者が物知りと区別されるのは、物知りの知識が分量が多いだけで散漫で不統一であるに反し、学者の知識が一つの中心によって、体系づけられ組織づけられていることである。従って学者たる限り、社会科学者は固より自然科学者と云えども、単に狭隘(きょうあい)な専門知識を持つだけでなしに、其の知識がより広汎にして、而も統一と体系とがなければならない。殊に社会生活に就いて、祖国に対する立場に就いて、一定の確乎たる見解がなければならない訳であり、思想家教育家に至っては、寧ろ之を其の専門とするものである。それならば学者、思想家、教育者が、祖国の現在の危機存亡の時に、其の祖国に対する一念止み難く、其の誠意を傾けて国民を鼓舞し鞭撻しなければならない義務がある。政府が政治的に国民を指導するならば、之等の人々は道徳的に精神的に国民を指導すべきである。然るに此の義務を自覚して、此の任務に奮起するもの、幾人を数えることが出来るであろうか。

 私をして率直に云わしめば、此の数年間の学界思想界は、思想統制の声に怯えて、死の如き沈黙に陥っているのである。只管(ひたすら)に其の念とする所は、筆禍舌禍を免れることのみである。人影で物を云い小声で囁き、其の言葉の他に漏れるのを虞(おそ)れる。怯懦臆病は学界思想を支配し、卑怯卑屈は学界思想家を風靡している。

五 国内分裂を警戒せよ(P.49)

其の信念に於いて祖国に不忠なのではなかろう、惟沈黙と無為とを以て一身を保つに急なのである。之を以て青年学生を教えようとするも、教えられるものの冷笑を買うのは当然である。学問の権威と教育の威信は地に塗れた。古の学者は其の罪は固より他に帰すべきものもあろう、だが大半の責任は学者思想家自体が負わなければなるまい。学問の意義と任務、学者の人格の成長が、全く等閑に付せられていたからである。謂う所の数学の印新は、ここにこそ核心を置かなければならなかった。

 今にして懐かしく偲ばれるのは、十九世紀初期のプロシァ復興当時の学者思想家の気概である。一八〇七年プロシャがナポレオンの馬蹄に蹂躙されて、ティルジット条約を押し付けられた後に、いかに祖国復興の為に学者思想家が奮起したであろうか。シュタイン、ハルデンベルグ等の政治家を助けてウィルヘルム・フォン・フンボルトは、希臘(ギリシャ)の人文主義を国民教育の骨子として、国王の譲位を迫ってまで教育制度の改革を遂行した。殊にフィヒテが伯林の聴衆を前に「独逸国民に告ぐ」の講演を為した時は、廊下にナポレオンの兵士の靴音が聞こえていた。彼は敵軍の銃剣の下に立ちながら、独逸の状勢を憤慨し、独逸の復興を絶叫したのである。独逸の滅亡を以て、国民の道徳的頽廃が原因だと云い、国民の道徳的再生を以て独逸復興の道であると云った。ライプチヒの戦いでナポレオンを敗った独逸の青年は、戦場の篝火(かがりび)の傍でフィヒテの講演を想起したであろう。啻にナポレオンを独逸から駆逐したばかりではない、フィヒテやフンボルトは独逸永遠の基礎を据えた。一八七一年の普仏戦争の時も、現在の独逸の復興でも、其の源は一九世紀初期の学者思想家の気魄と情熱に在る。

 退いて思いを祖国百年の後に致すと云うならば其の志と云えば壮である。だが百年の後の祖国を思うものは、現在の祖国を傍観してよい理由はない。今の世に智者あり学者あり論者あり、されど刻下の祖国の必要とするものは、学問の武士であり思想の国士である。

六 日本の使命(P.50)

 私はここまで、読者と共に、沸き立ち渦巻く現実の中に身を置いて来た。ここで暫く身を現実から抜いて、静かに高処から我々自身を俯瞰しようではないか。

 あらゆる国民は、自らの存在を維持する権利を持つ。然し其の国民が世界文化に貢献すべき何ものも持たないならば、それは唯動物的存在を続けるに止まろう。それでは日本国民に果たして世界史的使命があるであろうか。

 世界歴史家の云う所によれば、異種文化が互いに接触して、何れの文化をも滅ぼすことなしに、調和融合の結果としてより高度の文化を創造したことが、世界歴史を通じて三度あった。第一は西暦紀元三世紀に希臘(ギリシア)と東方(西方亜細亜)の文化が接触して、ここに希臘東方の文化が成立した場合であり、第二は紀元初期に希臘と羅馬(ローマ)との文化が接触して、希臘羅馬の文化の成立し、第三は紀元四、五世紀頃、北方のゲルマン民族が南下して羅馬文化と接触し、羅馬ゲルマン文化の成立した場合である。こうして三度まで異種文化が接触した場合に、若し何れかが他を圧倒して滅ぼしたならば、残った文化は決してより高度の文化にはならなかったろう。然し互いに他を傷つけることなく、双方の何れかもが残って補間した為に、より高度な文化が成立して、今日の欧羅巴(ヨーロッパ)文化を見たのだと云われる。而して世界歴史家は更に話を続けて云う、第四の文化の接触が今や、欧羅巴と東洋の間に起こりつつあると。

 異種文化の接触と云う観点に立てば、日本の明治時代は世界歴史に於ける劃期的時代であった。それまでも西洋と東洋との接触がなかった訳ではない。印度と西洋との交通は早くから開かれ、西域を通して支那と西洋とも交通していた。

六 日本の使命(P.51)

然しそれは何れも低段階の文化の接触に過ぎなかった。所が日本の明治時代に接触した西洋の文化と東洋の文化とは、以前のような低段階のものではなかった。明治維新(西暦一八六八年)前後の西洋の文化は、既に幾度かの接触を経験した高度の文化であった。之と接触した日本の文化は、日本固有の文化の外に、千数百年に支那から儒教を入れ印度から仏教を入れ、東洋文化を集大成した、惟一つの代表的東洋文化であった。ここに東西の文化は接触した。世界歴史に曾てない大規模の異種文化の交渉であった。此の時日本の採った態度は、印度の如く西洋文化に圧倒されることでもなければ、支那の如くに西洋文化に反抗することでもなかった。謙遜に寛容に己を虚しくして西洋文化を受容することであった。而もそれが為に日本東洋独自のものを失わずに、伝統の文化を強靭に保持しつつ、西洋文化に胸を開いた。此の謙虚な受容力と強靭な伝統力とによって、東洋と西洋の異種文化は、初めて接触し融合し調合することが出来た。此の過程は今後も永久に継続されねばならないであろう。が然し日本は明治時代の事例によって、異種文化の接触調和に充分の能力資格のあることを証明した。世界歴史家の云う第四回目の異文化接触は、日本こそ其の負担者でなければならない、そして日本こそより高度の文化の創造者でなければならない。之が日本国に課せられた世界史的使命である。あらゆる国民は何らかの特殊文化を持つことにより、世界文化に貢献し得るに違いない。然し日本の負う世界的使命は、之とは比較にならないほどの重大な使命である。かくて日本国民は世界文化の為に、自己の存在を主張する権利がある。

 だが日本の世界史的使命は之だけではない。人は世界歴史を夫々の立場から眺めることが出来るだろう。前の異種文化の交渉と云う問題も、世界歴史を眺める一つの観点である。然し私の見る所では、世界歴史は人間の歴史である。人間の歴史は、人間が自己の人格性に目覚めた時より始まる。凡そ人は人格となり得る能力を持つ、此の能力が人格性と云われる。人は人格性を与えられるが故に、神聖なる目的にして、決して単に手段として用いらるべきものではない。人格性に目覚めたのが希臘のソクラテスに始まると云われるが、それ以来の歴史は、一方では人格とは何かと探って、人格の観念を深化したことであり、他方では人格の観念を適用すべき対象の拡張であった。

六 日本の使命(P.52)

人格とは単に知識的なものに止まるか、芸術的なものでもあり、道徳的のものでもあるか。夫々の時代には夫々の一方に偏していたが、やがて遂に人格とは之らすべてを統合したものであることが明らかにされた。之が人格の観念の深化の歴史であった。此の歴史と並行して、人格の観念の適用さるべき対象の拡張が行われた。ソクラテスの希臘では、奴隷は当然のものだとして怪しまなかった、即ち奴隷は人でありながら、人格性を持つものと思われなかったのである。だが人と思われるべき人の範囲は徐々として拡大された。貴族も平民も共に人であり、その為に平等である。男性も女性も共に人であり、決して差別を置くべきではない。資本家も労働者も共に人であり、その故に対等に取り扱わるべきである。人格性に目覚めた西洋の人々も、ここまでは人の範囲を拡大することが出来た。然し彼らは人を当然に白色人種に限定して怪しまなかった。だが白色人種も有色人種も共に人であることに於いて異なる所はない。惟違うのは皮膚の色だけである。

 なるほど十九世紀に奴隷解放は行われた、然しそれは阿弗利加(アフリカ)の黒人を対等と看做したのではなく、実は優越者が黒人に憐憫の情を与えたに止まる。かくして人格の観念は、有色人種に対しては限界的に到達して、之以上に徹底することが出来なかった。白色人種が阿弗利加や亜細亜に於いて、いかに横暴を極めたか、単に手段としてのみ人間を取り扱ったか。

 だが白色人種は日本の擡頭に際会して戸惑いした。未だ曾て経験せざるものを新たに経験したからである。そこに白色人種に劣らない国民がある。之を従来の如くに劣等な有色人種と看做すことは出来なくなった。始めは優越者の自負心を以て日本国民を指導した、次いで日本国民が成長するや、之を対等と看做さざるを得なくなった。然し永い伝統的因習から、ここに人格の観念を適用することは容易ではない。此の複雑な心理から、彼らの我々に対する嫉視反目が現れるのである。だが嫉視や反目は、優越者と劣悪者の間には行われない。好むに好まざるにせよ、彼らは暗黙の間に日本国民を対等の人間と看做しているのである。之こそ有色人種に対する観念の一革命ではなかろうか。白色人種も意識せず我々日本人も意識しない間に、人格観念の適用は徐々として拡張され、今や有色人種にまで及ぼうとしている。

六 日本の使命(P.53)

白色人種をしてここまで至らしめたのは一に日本国民の賜物である。日本国民なかりせば、彼らは従来の観念を平然として維持したであろう。人格観念の適用を徹底せしめたこと、之が日本国民の世界的功績であり、今後も継続せねばならない世界的使命である。ここにも我々の存在を主張せしめる根拠がある。

 悠遠な世界史的使命から一歩退いて思う。昭和十六年(西暦一九四一年)と云う我々の歴史は、最近の日本の歴史の中の、いかなる時点に位するものであろうか。

 明治維新(西暦一八六八年)以来現在まで七十三年が経過したが、之を思想史的に見れば、五つの時期に区別することが出来ると思う。之らの時期を通じて日本を動かした問題が二つあった、一つは日本が重点を国内の充実に置くか、外国との関係に置くかの問題で、前者は退いて己を整えるものであるとすれば、後者は進んで膨張発展に乗り出すのである。日清戦争、日露戦争、満州事変、支那事変、等は後者の例である。他の一つの問題は日本が外国の文化に傾倒するか、或いは自国の固有の文化を目指して、その価値を高調するかである。此の二つの問題は互いに錯綜して来るが、多くは対外的に膨張発展する時は、日本固有の文化に目覚める時なので、かくして思想史上に五つの時期が区別される。第一期は明治維新から始まり明治二十年に至る間で、此の時期に日本は熱狂的に外国思想を輸入した、そうして輸入された思想は自然主義・個人主義・自由主義であった。之に対する反動が明治二十年前後から起こり、之が第二期である。此の時期には日清戦争と日露戦争があり、日本固有の文化を自覚し、理想主義・国民主義・国家主義の時代と云える。やがて明治四十年頃から第三期に入り、或る意味で第一期に復帰したとも云えるので理想主義・個人主義・自由主義が支配的であり、大正十年頃から第四期が始まり、主としてマルクス主義が勢力を揮った。昭和六年九月の満州事変を契機として第五期に入る。此の時は明治二十年から四十年に至る第二期と類似し、対外的膨張発展の時代であり、同時に理想主義・国民主義・国家主義が圧倒的である。

六 日本の使命(P.54)

第二期が第一期に対する反動だとすれば、第五期は第三期及び第四期の双方に対する反動である。第五期は既に十年を経過したが、之がいつまで継続するかは予想の限りではない。いつかは静かに己を省みて内を整える時期に移るだろう。だが昭和十六年の現在は、明治以来の思想史上の第五期に在る。之が我々の所在を明らかにするに役立つであろう。

 それでは我々の現在は、最近の世界史の中のいかなる時点に立っているのか。第十九世紀初期以来の世界の歴史を三期に分けることが出来る。第一期は仏国大革命から始まり、一八七〇までの時期で、国内的には個人主義・自由主義、国際的には世界平和、自由貿易を理想とし、一八六〇年コブテンとナポレオン三世とが英仏通商条約を結んだのは、最高頂であったと見られる。所が其の後に新しい二つの現象が現れた、一つは一八七一年の独逸統一であり、他は一八六六年南北戦争を終えた米国の統一である。勿論前者の及ぼした影響は後者よりも遥かに大きい。そこから第二期が始まる。此の時期には漸く国家間の対立競争が激化して、関税戦争なども現れ、同時に国内的には個人主義・自由主義の修正が行われ出した。然し第二期は根本的には第一期と類似していた、従って多くの人の注意を逸するが、第二期は第一期から第三期への過度を為したほど、前期の様相は既に変化していたのである。第二期の最終にしてやがて第三期開始の動因となったのは、前大戦である。大戦はデモクラシーと専制主義との闘争だと云われて、聯合国側の勝利はデモクラシーの勝利だと思われた。なるほど全世界に亘って、自由主義殊に政治的自由主義が行われ、世界平和を保証する使命を以て国際聯盟は成立した。然し大戦後に行われた政治的自由主義こそ、寧ろ却って自由主義の欠陥を露呈して、却って自由主義の弔鐘(ちょうしょう)を鳴らすこととなった。蓋(けた)し英米仏白の国々を除いては、戦後の複雑な問題を処理するには、自由主義政治制度は不慣れでもあり敏活を欠き、能率を挙げることが出来なかったからである。第三期の消極的原因がここに在る。

六 日本の使命(P.55)

 更に前大戦は之までの戦争と違って、三つの重大な問題を残した。第一は大戦終結前一年即ち一九一七年に起こった露西亜革命である。最も活撥な攪乱は、一九二三年までであるが、伊独始め東欧の諸国は、何れも其の攪乱を受けざるはなかった。第二は大戦が世界各国を捲き込んだ為に、大戦後には各国の経済関係は密接に緊密に影響し合うこととなり、一国の経済変動は他国に波及し、全世界をそれに巻き込まずには措かないほどとなった。之に加えて独逸が戦勝国の賠償金を支払い、戦勝国相互の戦費債務の支払いがあり、各国間の経済関係を錯綜せしめたのである。大戦後の景気変動の跡を見るに、次のような循環がある。

一九一九   一九二〇年  好景気

一九二一   一九二三年  不景気

一九二三   一九二九年  好景気

一九二九   ____年  不景気

 此の変動は何れも或る地方から始まったものが、全世界に波及したのであるが、一九二九年の米国の農業恐慌に始まり、一九三一年にあった米国の金融恐慌が之に拍車を加えて、現代は世界不景気の中に在る。

 第三に大戦は各国の国民主義・国家主義を強化した。たとえデモクラシーの為であろうとも、戦争遂行には却ってデモクラシーと対立する制度を採らなければならぬ。各国は非常処置として独裁制を布き、嫌が上にも愛国心を煽揚し、軍需品・食糧品産業に国家的保護を加えねばならない。戦争が終わったからとて、俄(にわ)かに之らの保護を打ち切ることは出来ない。かくしてデモクラシーの為の大戦は、却って反対の方向へと推進する結果となった。

 以上に挙げられた四種の事項、即ち第一に自由主義制度の破綻、第二にコミンテルの活動攪乱、第三に各国経済の複雑な結合、第四に大戦の生育した国民主義・国家主義、之ら四項は互いに密接に関係して来るので、各国の不景気に乗じてコミンテルの攪乱は活撥となり、之を取り締まる為に国家主義は強化されるし、不景気回復の為の輸出を奨励し、輸入を阻止する。

六 日本の使命(P.56)

かくして補助金の下付と関税の障壁とが設けられ、之は国家主義を強めて各国対立の状勢を激化する。かかる複雑な問題を処理するに、自由主義制度は愈々(いよいよ)弱点を曝露する。之を要するに以上の四項目が錯綜して、大戦後は一路国民主義・国家主義へと急いだ。かくして第三期が始まった。国民主義・国家主義は必ずしも独裁とか統制に帰納するとは限らないが、自由主義制度の破綻が現れた以上は、ここに導かれるのは当然である。然しいかなる国に、いつ政治的変化が現れるかは、国家特殊の事情に係るが、第一期の不景気時代の一九二二年に、ムソリニーのファッショ進軍があり、第四期の不景気の一九三三年にヒットラーが政権を掌握したことは、我々の注目に値する。日本は聯合国に属したとは云いながら、欧羅巴と隔離した特殊の地位に在ったから、欧羅巴と必ずしも事情を同じくはしないが、然し世界の波動は東亜にも及ばざるを得ない。そこで私の結論を云えば、昭和十六年の現在は、十九世紀以来の世界歴史の第三期に位する。そして之が丁度明治以来の日本の第五期と合致するのである。

 私は歴史的回顧を離れて、徐々として現実に近づこう。国民主義・国家主義が擡頭すればとて、それは国内問題に就いての変革に現れようとも、必ずしも国際問題へと変動を及ぼさずとも済み得ないことはない。所が大戦後の国民主義・国家主義の擡頭には、有力な理由として各国の錯綜した経済関係の調整、不景気の挽回のあったことを忘れてはならない。ここに於いて国民主義・国家主義は国際関係に波動を及ぼさずには措かない。それでは之を解決する方法がなかったかと云うに、必ずしも絶無ではなかった。平和の殿堂たる国際聯盟が、若し正当に運用されたならば、国際平和の上に立って解決が出来たであろう。即ち現在の世界秩序の上に立って、金融・原料・販路・労働の自由解放を断行することである。だが国際聯盟は其の成立の当初から、之を為し得ない運命を負わされていた。何故ならば国際聯盟は各国の現状維持を基礎とし、現状維持に従うものは平和の美名を謳われ、之の反するものは侵略の汚名を負わされる。

六 日本の使命(P.57)

然し現状維持とは何を意味するかと云えば、現在に持てるものに幸いし、持たざるものに禍する。無限なるものに就いては、持つものと持たざるものの対立は起こらない。然し物質は有限である。一方に持つものあれば、其のことが既に持たざるものを生じるのであり、持てることにより、持たざるものより奪っているのである。羅馬(ローマ)法以来正義とは、あらゆるものに其の分とするものを帰属せしむることに在りとされているが、世界の現状維持自体が正義に反する。現状維持に反するものが汚名を浴び、之に従うものが美名を与えられるのは、持てるのもが持つことを持続せんとする利己的道徳秩序とも云えるだろう。英米がいかに現状維持に執心したかは、米国がモンロー主義を尊重することを、英国が特殊利益を尊重することを、聯盟規約の中に挿入したことを見れば分かる。真に世界平和を維持しようと思うならば、持てる英米が自らの持てるものを抛棄するか開放するかでなければならない。之を為さずして、世界平和を維持しようと云う国際聯盟は、真の平和を実現し得ない。サンピエル、カント以来永久平和の憧憬は久しい。永久平和を実現するかに思われた国際聯盟は、此の根本問題に逢着して立ち竦みの儘となった。人間が互いに殺し合わねばならないのは、余りに惨(いた)ましい人の世の悲劇である。戦争は止むを得ざる手段ではあろうが、決して永久の目的ではない。だが平和の殿堂があの国際聯盟の如くであれば、浜の真砂の如くに、人の世に戦いは絶えないだろう。

 国際平和の上に立っての解決が絶望だとすれば、残された解決は一つしかない。それは国際現在秩序の打開である。ここに於いて西に欧羅巴新秩序の声あり、東に東亜新秩序の声揚がる。後者一転して東亜共栄圏の確立となる。

 東亜共栄圏の確立とは、云うに易くして行うに難い。此の旗幟(きし)を中外に揚げた場合に、いかなる障害が起こるべきか、其の一切を洞察したであろうか。之を実行するに必要なる用意を、残る隈なく整えたであろうか。此の洞察なくし此の用意なくして、易々と実行されるのは、東亜共栄圏の確立とは、余りに荊棘(けいきょく)に満ちた難路である。

六 日本の使命(P.58)

だが日本は敢えて此の旗幟を揚げた。個人が其の言責を重んずべきであると共に、国家も亦其の標榜する所に責任を持たなければならない。其の反対者に対しては威信の為に、其の共鳴者に対しては誠実の為に、日本国民は重大なる義務を身に担ったのである。

 私をして率直に云わしめるならば、今日の事態は遠く満州事変に際し、尠くとも支那事変の出発に於いて、夙(つと)に予想されたことであった。然るに我々は今日の事態を洞察していたであろうか。之が為に万般の用意を整えていたであろうか。東亜共栄圏の確立と云う壮挙に向かうには尠くとも日本国民日本国民の精神的準備は為されていなかった。此の目的まで一億の魂を昂揚せしむるに、充分の素地が作られていたかどうか。圏内の共存共栄を図るべき同志の国民に対して、果たして充分の共鳴と共感とを喚び起こすだけの計画が為されていたかどうか。私は之を疑う。

 だが然し我々の祖国は、満州事変に於いて第一歩を踏み出し、支那事変に於いて第二歩を、日独伊軍事同盟に於いて第三歩を踏み出した。そして我々日本国民は結局之に対して、共同の責任を持たなければならない。我々に退くべき道は、既に閉じられている。それでは現在の場所に停止するか、然し停止は消極的の前進である。前進によって得るものなく、退いて得るものもない。我々の道は唯前方に在る。我々に残された道は、既に歩み来たりし道を進むの外はない。然らずして徒に諮?逡巡(ししよしゅんじゅん)するならば、一九一八年の独逸の運命が、再び我々の頭上に落ち来たるのみであろう。之を堪え難いとすれば、我々は座して待つべきでなく、進んで血路を開くのみである。

 政府は我々の前に横たわる二つの途を熟視して、決然として一つの途を選ばねばならない。而して此の途を進むが為には、一切を賭して身命を捨てる覚悟を持たなければならない。更に苟(いやしくも)も一つの途を進む以上は、怯(ひる)む所なく臆する所なく、飽くまで貫徹しなくてはならない。国民は政府と共に、苦難に堪え危険を凌いで、目的の貫徹に一致結束しなくてはならない。いかに苦難が多かろうとも、戦場に臨む武士は退くことを考えなかった。

六 日本の使命(P.59)

彼らは「個」を捨てて「全」の為に捧げた。あの自己犠牲の精神を銃後の生活に活かすこと、之が我々国民の道徳的義務である。そしていかに現状に不満であろうとも、左翼の煽動に乗ぜられてはならない。徒に混乱と紛糾とを費やすに止まって、何の得る所もない。ここでも独逸国民の歴史から、我々は教えられる所がなければならない。

 我々の今や臨みつつある運命は、日本歴史あって以来の未曾有のものである。だが此の途を前進し終えるならば、我々に道徳的の勝利がある。然らずして右顧左眄して佇立(ちょりつ)しているならば、たとえ物質的に救われようとも、道徳的には亡国の民となろう。

 私をして幾度か繰り返さしめよ。我々の前の二つの途がある。而して唯二つしかない。一は我々を亡国に導く、之を採らないとすれば、他の途を採らなければならない。あらゆる国民は、自己の生存を維持する権利を持つ、況や我々には悠遠なる世界的使命が身に負わされている。願わくば此の国民をして屈せしむること勿れ、願わくばこの国民をして亡びしむること勿れ。

あとがき(P.60)

 本書に述べられた私の思想を、より系統的に読もうとされる読者には、私の「グリーンの思想体系」を薦めたい。同書を稍平易にしたのは「学生に与う」である。支那事変に就いては、事変発生前一ヶ月に「日本評論」に「迫りつつある戦争」を書き、極東の状勢が大戦に至る可能性を説いて、読者の決心を促した。事変発生後には「中央公論」昭和十二年十二月号に「日支問題論」を寄せ、支那に対する態度と講和条約とに就き発表し、翌年一月号の同誌に「外交の印新」を載せた。マルクス主義に対する私の見解は諸著の散在しているが「欧州最近の動向」の中「コミンテルンの崩壊」という章が、最も重要なるものである。

                                 著 者   河 合 榮 治 郎

                                 発行者   八 木 謙

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