表 紙(P.1)

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目 次(P.2)

           □ 無資格者による医療行為(P.3-4)

           □ 山口県保険福祉部への質問返事(P.5-7)

           □ 返事の理論的欠陥(P.8)

           □ 医師法と保健師助産師看護師法の関係(P.9-10)

           □ 図2(P.11-12)

           □ 厚生労働省への嘆願書(P.13-14)

           □ 助産の法的解釈(P.15)

           □ 看護師の内診は違法か(P.16-19)

           □ 放射線技師法と保健師助産師看護師法(P.20-21)

           □ 五十年後のお産(P.22)

           □ 娘の為の祈り(真実をみる)(P.23-30)

無資格者による医療行為(P.3)

 “無資格者による医療行為の防止“という言葉が使われていますが、どんな資格者に医療行為が許されているのでしょうか。看護師の資格を取ると注射が出来る。准看護師には本当は資格がないのだけどまあ大目にみてやろう。看護学生に注射さすのはこれは違法だ。などと考えられてるのが現状だと思います。しかし本当に法的に医療行為が許されている看護師や助産師がいるのですか。いません。医療行為が許されているのは医師だけです。先日、何処までの医療行為が看護師に許されているのだろうか、その線引きは何か提示されているのだろうかという様な問いかけをしました。その後色々探してみましたが看護師助産師に出来る医療行為は無い、というのが法の上の結論です。では注射も血圧測定もなにもかも医師がしなくてはならないかという事になります。まあそうでもありません。保健士助産師看護師法の第5条に「看護師」とは~~療養上の世話又は診療の補助を行う事を業とするものと定義してあります。看護師は”療養上の世話”つまり「看護業務」と”診療の補助”つまり「医師が行う医療行為の手伝い」が出来るのです。だから看護師にさせるのは”医療行為(診療)”ではなく”診療の補助”と見なせばいいでしょう。注射薬の内容、注射法は医師が決定し(これは診療行為)、医師の指示の基に医師の責任下で看護師が”診療の補助”として患者に注射をする。こういう解釈が出来ると思います。しかし何でもかんでも医師が許可した事なら通るとは言っているのではありません。極端な言い方をすれば医師が「俺は2階で寝てるから、お前らで帝王切開やっとけ!俺が責任とる」と助産師、看護師に命令してそうなったら、それは許されるか。それは通らないでしょう。そんな事は社会通念の逸脱と見られます。どう拡大解釈しても”診療の補助”の枠内には収まりません。看護師にどこまでやらせていいかという事ははそれが社会通念の逸脱かどうかつまり”診療の補助”の枠内に填まるかどうかという事になると思います。ここで問題なのは”診療”と”診療の補助”との境が不明瞭と言う点です。しかしこれはこのままでいいのではないでしょうか。グレイゾーンはこちらの都合でどっちにも入れる事が出来る。注射を医療行為とみなせば看護師が手を下すのは違法です。しかし診療の補助とみなせば看護師がそれをする事は合法です。では看護学生がしたらどうなるでしょう。

無資格者による医療行為(P.4)

ここが問題なのです。これは助産師学校で助産の実習が違法なのか合法なのか、看護学校で採血導尿の実習が違法なのか合法なのかという問題と同様です。結論を言いましょう。医療機関で行われていればば全て合法だととれます。なぜなら医療法の適応下にあるからです。医療法の適用下では保健師助産師看護師法の第三条、第五条、第六条に定義してある助産師、看護師、准看護師の定義下で行われる保健師助産師看護師法第三十条、第三一条、第三二条の助産師、看護師、准看護師でなけれな~~してはならないという文が”医師法又は歯科医師法の規定に基づいて行う場合は、この限りでない”という注釈で打ち消されます。要するに医師法下ではなんでもOKなのだととれます。でないものもあります。ここで比較として歯科医師法を見てみましょう。歯科医師法第十七条 歯科医師でなければ、歯科医業をなしてはならない。この文の後には”医師法の規定に基づいて行う場合は、この限りでない”という注釈はありません。歯科医業は医師法の基でも歯科医以外は行ってはならないのです。だから口腔外科の専門家は医学部と歯学部の両方を出ています。獣医も同様です。

 ①診療行為は医師しか出来ない。②しかし診療の補助なら看護師も出来る。③診療の補助は看護師しか出来ない。④しかし医師法の基なら看護師以外の者でも診療の補助が出来る。法を読んだ結論は以上に達しました。

 ここで思考が大胆に飛びます。医師の免許を持たない医学部の学生は医師法の医師でないものは医療行為が出来ないという法の為に臨床実習の場において患者に直接触れることは皆無です。今後の若い医者は卒業し医師の資格を得た後2年間自ら診療行為の出来ない研修医として過ごす事になりました。これは6年間でしてきた教育を8年かけてやろうとする大変無駄な制度と思われます。教育期間を2年増やす事で本当にいい医者の養成が出来るのでしょうか。短期間に集中してトレーニングする方がだらだら長期間に渡ってトレーニングするよりより効果的だという事は運動の世界では常識です。医師法に縛られてこういう事をしてるのだったら法の解釈を上記のごとくし、医学部の5,6年生は”診療の補助”という立場で医療現場に介入させればいい。卒業までに手術の助手、その他多くのテクニックを身に付けさせ世に送り出すべきです。それは社会通念の逸脱とは執れないでしょう。どんなに優秀な外科医でも生まれて初めて人の体にメスを入れる瞬間というのはあるのだから。

公益社団法人 日本産婦人科医会 2003/10/21 jaogに投稿

保健師助産師看護師法

http://www.ron.gr.jp/law/law/kangofu.htm

医師法

http://www.ron.gr.jp/law/law/ishihou.htm

歯科医師法

http://www.ron.gr.jp/law/law/sikaisi.htm

山口県保険福祉部への質問返事(P.5)

平17医務第739号

平成17年(2005年)8月30日

八木クリニック

   八木 謙 様

山口県健康福祉部医務課長

「助産」等に関する法的解釈について(回答)

 時下ますます御清栄のこととお喜び申し上げます。

 医療行政の推進につきましては、平素から格別の御配慮をいただき、厚くお礼申し上げます。

 さて、平成17年8月11日付けで質問のありましたこのことにつきまして、大変遅くなりましたが別紙のとおり回答いたします。

 今後とも、医療行政の推進につきまして、一層の御支援と御協力を賜りますようお願い申し上げます。

「助産」等に関する法的解釈について(回答)

質問 ①助産師単独で行なっている助産は、助産師に許された医療行為と解するか。

山口県保険福祉部への質問返事(P.6)

(回答)

 保健師助産師看護師法(以下「保助看法」という。)第3条の規定により、助産師は「助産」を業として行なうこととされており、また、同法第30条の規定により、医師が医師法の規定により行なう場合を除いて、助産師でなければ「助産」を業としてはならないとされています。

 医師が医師法17条の規定により医業(医療行為)をなす者とされていることを考えれば、「助産」は、(医療行為)の一部と考えます。

 従って、助産行為を単独で行なっている助産は、保助看法第3条の規定により助産師に許された医療行為と解します。

 なお、助産師が自らの判断に基づき業とすることが認められる「助産」は、正常な場合の分娩に限られます(ただし、臨時応急の手当ては可能。)。

質問 ②柔道針灸師の行なっている行為は医療行為と解するか。

(回答)

 柔道整復師及びあん摩・鍼・灸師の行なっている行為は、医業類似行為とされています。(あん摩マッサージ師、はり師、きゅう師等に関する法律第12条)

質問 ③助産師単独で行なう助産は、医師法下にあるか。又は医師法外か。

(回答)

 助産師単独で行なう助産は、医師法でなく、保助看法の規定により行なわれるものです。

山口県保険福祉部への質問返事(P.7)

質問 ④助産師単独で行なう助産が医師法内であるとすれば、医師法の中に助産師の行為を設定した文言があるか。

    無ければ医師法のどの条項をみて、助産師単独で行なう助産が医師法下にあるといえるか。

(回答)

 ③のとおりと考えておりますので、⑤により回答します。

質問 ⑤助産師単独で行なう助産が医師法外であるなら、医師法外で行なう医療行為は医師法違反と解せないか。

(回答)

 助産師単独で行なう助産は、助産が医療行為であるため、本来ならば医師以外の者が行なうと医師法違反となりますが、医師法の特例を定めている保助看法の規定により、助産師は、医療行為である助産を単独で行なうことができるとされており、医師法違反にはならないと解します。

返事の理論的欠陥(P.8)

矛盾点

この回答の論理は①助産は医療行為である。②助産は医師法下にない。③医師法外にある医療をある条件下で行なう事が可能である。

この理論の矛盾点は医師法外にある医療が存在するとした点です。ある行為を医療と定義した場合その行為は医師法下に入ってしまう。それが医師法下に入らなければ医師法第17条違反です。

正しい解釈は助産には医療であるものと医療でないものの2通りある。助産師が保助看法下で扱う助産は医療でない。よって医師法違反にはならない。

医師法と保健師助産師看護師法の関係(P.9)

助産行為と医療行為の関係をシェーマにしてみました。医療行為を大きい丸、助産行為を小さい丸、そして重なっているところが医療機関内で行なわれる助産となります。医療機関内で行なわれる助産は医療行為に入るという意味です。さて貴課の解釈では助産師単独で扱う助産(黄色)も医療行為に入るとされました。つまり緑、ピンク、黄のすべてが医療行為となるわけです。しかし、黄色部分まで医療行為だと定義付けると、ここで新たな問題が生じます。では黄色部分は医師法下に入るのか、それとも医師法下に入らないのかという問題です。③、④、⑤の質問はこれが医師法下に入っても、医師法下に入らなくともどちらも法的矛盾を生じるという事を言っています。

その矛盾を解決するにはやはり医師法が通用しない部分(黄色部分)が法的には存在するのだと解釈するしかない。助産師単独の助産は医療行為ではないと解釈するのが法的に無理がありません。確かに医療法の中に助産所の設立条件が記されています。しかしこれは助産行為が医療行為である事を証明するに足るものではありません。これは単に助産所のあり方を規定しているだけのものです。

貴課の解釈ではピンクの場所は保健師助産師看護師法の枠内にある為、緑の枠の医療法は通用しない。ただ例外的に医師免許があるもののみピンク内に入ってよろしいとの説明になりました。しかしその解釈は間違っています。医師法が通用しないのは黄色部分だけです。緑とピンクの部分すべて医療の枠組み内に収まり、この大きい円の中はすべてに医師法が適用されるとみなければならない。

医師法と保健師助産師看護師法の関係(P.10)

医療行為の中で行なわれる助産は医療であり、医師法の適用下とされる為、むしろ保健師助産師看護師法が通用しない。ピンクのゾーンを医師法が適用されない特殊地帯と解釈するのは間違った法解釈だと思われます。30条の「ただし、医師法下ではその限りではない」はその言葉通り保健師助産師看護師法30条が適用されないと解釈されるべきです。

健康福祉課への質問

①助産師単独で行なっている助産は助産師に許された医療行為と解するか。

②柔道針灸師の行なっている行為は医療行為と解するか。

③助産師単独で行なう助産は医師法下にあるか、又は医師法外か。

④助産師単独で行なう助産が医師法内であるとすれば、医師法の中に助産師の行為を設定した文言があるか。無ければ医師法のどの条項をみて助産が医師法下にあると言えるか。

⑤助産師単独で行なう助産が医師法外であるなら、医師法外で行なう医療行為は医師法違反と解せないか。

図2(P.11)

 

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質問③の意味は黄色い部分は存在するかという事です。助産行為はすべて医療行為だと定義すれば黄色い部分は無くなり、青と緑だけです。助産行為という円はすっぽり医療行為という円の中に含まれます。

貴課からの説明通りに医療と助産の関係を青と緑の2つしかないと仮定した場合緑の部分は医療法の届かない治外法権であるのかそれとも医療法の枠内に収まるのか。

図2(P.12)

貴課の解釈は緑の場所は保健師助産師看護師法の枠内にある為、青の枠の医療法は通用しない。ただ例外的に医師免許があるもののみ緑内に入ってよろしいとの説明になりました。しかし青と緑の2つしかないとしてもこれらはすべて医療の枠組み内に収まり、この大きい円の中すべて医師法は適用されるとみられます。

私は医療の枠外つまり黄色い部分の助産行為が法的に存在するのだと思います。これが医師のいないところで助産師単独で行なっていい助産行為であり、医療の枠内に入れない。保健師助産師看護師法で扱われている助産とは黄色い部分を指し、緑の部分はその適用外となる。医療行為の中で行なわれる助産は医療であり、医療法の適用下とされる為、保健師助産師看護師法は通用しない。緑のゾーンを医師法が適用されない特殊地帯と解釈するのは間違った法解釈だと思われます。30条の「ただし、医師法下ではその限りではない」は医師法が適用されない場所だと解釈するのではなく、その言葉通り保健師助産師看護師法30条が適用されないと解釈すべきです。

厚生労働省への嘆願書(P.13)

平成17年8月3日

嘆願書

厚生労働省医政局長殿

日本産婦人科医会山口県支部 八木 謙

 平成17年7月27日、貴省より行政処分者が発表されました(発行は8月10日)。その中に看護職に助産行為を行わせ、保健師助産師看護師法違反となった医師が含まれています。この件の見直しをお願いしたく嘆願書を提出致します。

 この処分は今後山口県内産科医療の混乱を引き起こすものと懸念致す次第です。まず県内産科医療の現況報告、法的解釈の妥当性、さらに今後の産科医療の見通しについて意見を述べさせて頂きます。

①県内産科医療の現況:

 山口県内での平成15年度の出産は病院で取り扱われた分娩数 5,264 件、対して診療所で取り扱われた分娩数 6,811 件と全国平均の診療所での分娩 47% より圧倒的に診療所での分娩が多いという状況です。しかし助産師の勤務状況は県内総助産師数341人の内、247人が病院勤務、53人が診療所勤務という分布で診療所の助産師希薄化が著名です。県内助産師等養成施設は3施設ありますが年間で助産師の資格を取る者は5~6名にすぎません。慢性的な助産師不足の形態を示しています。特に個人開業医にそのしわ寄せが来ている状況です。その中で扱われている分娩は産科医の全責任下で行なわれるのは当然です。助産師免許を持たない看護師に内診を指示した事は産科医としての責任を逸した行為ではありません。出された指示は医師がその分娩に対し責任を持ちつつ出された指示です。

厚生労働省への嘆願書(P.14)

②法的妥当性:

 問われている保健師助産師看護師法違反第30条は「第三十条、助産師でない者は、第三条に規定する業をしてはならない。ただし、医師法(昭和二十三年法律第二百一号)の規定に基づいて行う場合は、この限りでない。」とあります。後段の「ただし、医師法の規定に基づいて行う場合は、この限りでない」という文がある為、前段の「助産師でない者は、第三条に規定する業をしてはならない。」という文は医師法下では打ち消されます。よって医師法が適正に施行されている場所に置いてこの法は適用出来ない。さらに医師が扱う分娩は次のような法的解釈が出来ます。つまり産科医療は正常分娩も含めて医療行為である。正常分娩であってもいつ何時異常が起こるかもしれない事を踏まえた上での予防医療と解する事が出来ます。医師の介在する分娩は法的には保健師助産師看護師法で規定された助産ではなく、医療法で規定された医療行為とみなされます。その場合看護師に行なわせる内診は医療の補助とみなす事が出来る。該当場所での内診が医療行為であるか、あるいは医療の補助であるか、その判断は当該医師の裁量範囲内にあると解します。

③将来の産科医療の展望:

 全ての産科医療(正常分娩も含めて)は医師の管理下に置かれるべきです。将来、集中治療的に分娩を管理しようとすればNICU、麻酔科、小児科、その他スタッフの揃った敷地内かそれに隣接する場所に産科病棟を置かなければならない。その場合、医師無しの単独で分娩を扱う事の出来る資格は必要ありません。助産師、看護婦、准看護婦の3つの身分を統合し看護師という1つの身分にしなくてはならない。統一するのは法的身分であって、その中でのランク付けがあればいいでしょう。大学卒の看護師も多くなると思われます。看護師にさせてよい医療の補助の範囲は医師がその看護師の能力によって判断されるようにするべきです。そのような医師の裁量権を保つ為にも今回の裁定の見直しが必要と思われます。

助産の法的解釈(P.15)

助産という用語は「出産の手助け」と定義される。では出産という用語は「胎児およびその付属物を母体から完全に排出、または娩出することをいう」と定義されている。さらに分娩は正常分娩と異常分娩とに分類される。そして助産とは正常と異常の両者を含んだ分娩を補助する業務であるとみなされる。そこで有体に言えば正常分娩を扱う助産は医療ではなく、異常分娩を扱う助産は医療である。法的には2種類の助産というものがある事を認識しておかなければならない。これを1元的なものにしようとした所にこれの解釈についての疑義が生じたと言わざるを得ない。

助産師の扱う助産は医療行為を含まない正常分娩のみであり、これは保助看法下に置かれる。一方医師の取り扱う助産は異常分娩であってこれは医療であり、医師法下に置かれる。

 さて助産を助産師が保助看法下で行なう助産と医師が医師法下で行なう助産とに区別したが、では助産師が医師法下で行なう助産、あるいは医師が保助看法下で行なう助産というのは有り得るか。という事を考えて行きたい。前者が有り得ないのは明白である。しかし後者はどうであろう。医師が正常分娩を取り扱った場合、それは医師が保助看法下で助産を行なった事になるのだろうか。

ここがこの問題を考えて行く際のキーポイントとなる。法的立場から言えば助産師資格を持たない医師は保助看法下で助産を行なう事は出来ない。医師は医師法下で助産行為を行なっているのである。では医師は疾患でない正常分娩を取り扱う事が法的に許されているだろうか。医師が正常分娩を取り扱う事への是非は、その助産行為を医療、予防医療と定義付ける事で是となる。医師は正常な分娩の進行を側で見守り、異常に転じたら即対処する。という立場に立つ。最後まで異常が起こらなかった分娩であってもその助産は医師法下で行なわれたのである。助産師単独で取り扱う助産は保助看法下に置かれ、医師が介入する助産は医師法下に置かれる。法の前提から医療機関で取り扱う助産は保助看法下に置かれていない事が明らかであればその助産行為について保助看法の介入がなされる事は理論的に起こり得ない。

 

看護師の内診は違法か(P.16)

①看護師が助産業務を行う事は許されていない。

②内診は助産行為である。

③内診を行った看護師およびそれを指示した医師は違法行為をした事になる。

④医師自らが内診を行ったのなら違法ではない。看護師にそれをさせた事が違法なのである。

⑤これを指示した医師には保健師助産師看護師法(以下保助看法という)30条の違反が適用される。

以上が医師が法を犯したという論旨である。

完璧な理論構成と見える。だが果たしてそうか。

以下検証して行く。

1.看護師の業務と助産師の業務

 吸引分娩の際、医師がカップをかけて児頭を引く。その時看護師が会陰保護をしたら違法となるか。バルトリン腺腫瘍の手術で会陰部の皮膚を看護師がひっぱるといった事との違いは。帝王切開の際の鈎引きを看護師が行なう事は違法か。子宮筋腫の手術なら看護師が入ってもいいが帝王切開には入ってはいけないという事になるか。全ての産科医療は助産の要素が含まれる為、医師と助産師のみしか参入出来ないか。いや帝王切開は助産ではない、手術である。吸引分娩は助産であるから会陰保護はいけない。などという事が言えるか。医療機関内に置いて看護師業務と助産師業務の法的な区分けが出来るか。産科医療と助産との違いの線引きが可能だろうか。

ここで助産の定義が必要となる。

看護師の内診は違法か(P.17)

2.助産の定義

 助産という用語は「出産の手助け」と定義される。では出産という用語は「胎児およびその付属物を母体から完全に排出、または娩出することをいう」と定義されている。さらに分娩は正常分娩と異常分娩とに分類される。そして助産とは正常と異常の両者を含んだ分娩を補助する業務であるとみなされる。有体に言えば正常分娩を扱う助産は医療ではなく、異常分娩を扱う助産は医療である。法的には2種類の助産というものがある。助産師の扱う助産は医療行為を含まない正常分娩のみであり、これは保助看法下に置かれる。一方医師の取り扱う助産は異常分娩であってこれは医療であり、医師法下に置かれる。

3.非医療助産と有医療助産

 さて助産の定義が出来た。助産を法的な扱いにおいて2種に分類した事が大事である。便宜的に非医療助産と有医療助産と名付ける。行なわれている助産が非医療助産なのか有医療助産なのかにより法的扱いが全く異なって来る。

 非医療助産の方から見て行く。これは助産師が扱う。保助看法下に置かれる。看護師がこの業を行なう事は出来ない。

一方、有医療助産は医師が行い、医師法下に置かれ、看護師がこれに参入する事は許される。

助産とされるある行為が同一行為であっても非医療助産にとして行なわれた行為なのか有医療助産として行なわれた行為なのかにより法的解釈が違って来る。一方の場面では違法、一方の場面では違法でない。

法の目で肝心なのはそこで行なわれた助産が非医療助産なのか有医療助産なのかの一点にかかって来る。

看護師の内診は違法か(P.18)

保助看法下で助産師があつかう助産については論議の必要はない。問題なのは医療機関で扱われる助産の法的解釈である。正真正銘の異常分娩は医師法下におかれるのでこれは問題ない。では医療機関で正常分娩を扱うときの法的解釈はどうなるか。ここが問題となる。

4.医療機関での正常分娩

① 正常分娩も異常分娩と同様に有医療助産と解する。

② 正常分娩は非医療助産として取り扱う。

の2通りの見方が出来る。

① の解釈ならこれは医療行為であり、医療行為なら看護師は医療の補助を行なう事が出来る。看護師が医師の指示下で内診を行なう事は違法ではない。

② と解釈するならこの分娩は保助看法下に置かれる。この分娩に関して看護師が内診を行なう事は違法である。

しかし②と解釈すると、非医療助産と定義したからここには医療は存在しない。医療が存在しないものは医師法下に置かれない。医師法下に置かれていない行為は保助看法30条の後段の文章が無効になる。医師はこの分娩を扱ってはならない。正常分娩を扱う為には医師も助産師免許の取得が必要である。それとも医師免許取得時点で助産師免許を取得し得たと解釈出来るか。保助看法に医師に助産師資格を与えるという文章は無い。産婦人科医はもう一度助産師学校に行き助産師免許を取らなければならない。医師が助産を扱う事が出来る法的根拠は医師法下では保助看法30条は無視出来るという条項からである。医師法下に無ければ医師は助産を扱う事が出来ない。

看護師の内診は違法か(P.19)

5.医師が正常分娩を扱ってよいという法的根拠

 では医療機関で取り扱われる正常分娩を医療と定義出来るか。出来る。これは純然たる医療である。予防医療と解釈される。正常に進んでいく分娩を側で見守り、異常を見つければ直ちに処置を行なう。最終的に何も異常が起きなかった場合でもこれは医療である。

6.結論

看護師に指示した内診が違法ならそれは非医療助産下にある事となり、その分娩を医師が取り扱う事も違法である。

医師が看護師に指示した内診は有医療助産であるので医師法下におかれ、その行為は医療の補助であり違法性はない。

放射線技師法と保健師助産師看護師法(P.20)

看護師にレントゲンを撮らせる事は違法です。だが看護師に内診させる事は違法ではない。法をよく吟味してみると

Ⅰ、診療放射線技師法 には

第二十四条 医師、歯科医師又は診療放射線技師でなければ、第二条第二項に規定する業をしてはならない。とあります。

対して

Ⅱ、保健師助産師看護師法は

第三十条 助産師でない者は、第3条に規定する業をしてはならない。ただし、医師法(昭和23年法律第201号)の規定に基づいて行う場合は、この限りでない。となっています。

この2つの法の文章の違いは何を意味するのでしょう? 同じ事を言ってるんじゃないか。と言われるかもしれません。しかし微妙に表現が違うのです。

保健師助産師看護師法の表現が”医師、助産師でない者は、第3条に規定する業をしてはならい。”となっていない。これがそういう文章になっているのなら「看護師の内診は違法ではない」という私の主張が間違っていたと認めます。

だがそうなっていない。

放射線技師法と保健師助産師看護師法(P.21)

保健師助産師看護師法での表現は”保健師助産師看護師法第三十条は医師法下で効力を無くす。”と解釈しなければならない。医師法を忠実に守っている医師を保健師助産師看護師法三十条違反で裁く事は出来ない。

助産師は保健師助産師看護師法下で分娩を取り扱い、

医師は医師法下でそれを取り扱う。

両者で使っている法律が違う。

医師の指示の下で行なわれた看護師の内診は”医療の補助”という行為である。

五十年後のお産(P.22)

 来年の事を言ったって鬼が笑うのに、50年後の事を言ったら鬼が笑いように困って泣いてら~。

と言われたらみもふたも有りませんが、産婦人科における有床診療所問題を考えるのに日本の将来の理想的な分娩のあり方を見極めなければ思考は前に進みません。皆さんはどんな将来像をお持ちでしょう?試験的に私の頭の中に浮かんで来るものを羅列してみたいと思います。

●妊婦検診は個人診療所、分娩は病院と役割分担。診療所は入院施設を持たない。病院には麻酔医が何時でも手術出来る体制でいる。産科医はオープンシステムで対応する。

●正常分娩は助産師が扱う。異常の無い分娩に医師は立ち会わない。分娩後の母体新生児の管理は医師が行う。助産師は医師の管理下に置き、日々教育する。

●分娩施設を持つ病院は公が適材適所に設置する。

●分娩費は無料、国が負担する。年間分娩数を把握しその予算を組む。

●分娩は国が責任を持つ事により障害を持った子その家族の保障は国が行う。

障害児を産出させた事により1人の産科医が何億という賠償金を負い、日本の全医療訴訟賠償金の48%を産婦人科が使っているという現状を断ち切るには国民医師ともに基本的な考えを変えなければならない。

このような将来像を持ちながら、しかし、今現実には適材適所にそのような病院が無いのだからいましばらく個人開業医に頑張ってもらうしかない。今は法を変えてはならない。今は個人開業医が働きやすいようにしておかなければならない。やる気になればこの実現には50年はかからないかもしれない。20年か!10年か!

娘の為の祈り(真実をみる)(P.23)

Richard Dawkins より

親愛なる杏奈へ

 君が10才になったので、私が大切だと思うことについて書きたいと思います。私たちが何かについて知っていることが、どんなふうにしてわかったのか、と不思議に思ったことはないですか?たとえば空に針で穴を開けた小さな点のように見える星が、実際には、太陽のようにとても大きな火の玉だということはどうしてわかるのでしょう?また、地球が、そのような星のひとつである太陽のまわりをぐるぐるまわっている小さな球体だということが、どうしてわかるのでしょう?

 そうした疑問に対する答えは「証拠」です。証拠というのは、それが事実であることを実際に目で見る、そういったことなのです(あるいは耳で聞く、感じる、嗅ぐ・・・)。宇宙飛行士たちは、地球から十分に遠いところまで飛行して、自分の目で丸い地球を見ることができました。場合によっては、それが道具の助けを必要とすることがあります。“宵の明星”は、空にきらめいているように見えますが、望遠鏡を使えば、それは美しい球体であるのを目で見ることが出来ます。-この星は金星と呼ばれています。直接目で見て(あるいは耳で聞き、触って)学ぶことは、観察と呼ばれています。

 証拠は、ただ観察する、ただそれだけ、ということもよくありますが、観察はいつでも、その裏で嘘をついています。殺人があったとします。たいていの場合、誰も(その犯人と死んだ人意外は!)実際にそれを観察していません。しかし刑事は、ほかの観察結果をたくさん集めることができます。それらがすべて、特定の容疑者を指しているということがあるかもしれません。もしある人の指紋が、発見された短剣についていた指紋と一致すれば、その人がそれに触ったという証拠です。それは彼が殺人をしたと証明しているわけではありませんが、ほかの数多くの証拠と一緒にしたときに役に立ちます。そして刑事は、さまざまな観察の全体についてじっくりと考えているうちに、突然すべてがうまくそれぞれの場所に収まり、もし、そいつが殺人を犯したなら辻褄が合うことに気づくのです。

 科学者とは、世界と宇宙についての真実を見つけ出すことを専門にしている人々のことですが、彼らは刑事のような仕事をすることがよくあります。何が真実であるかについて、推理を行ないます。それから、自分に問いかけます。

娘の為の祈り(真実をみる)(P.24)

もし、それが本当に事実だとしたら、これこれのことが見えなければならないのではないかと。それは予測と呼ばれています。たとえばもし大地が本当に丸いのなら、同じ方向へ向ってひたすら前進する旅行者は、最終的にもとの出発点に戻ってくるはずだと、予測することが出来ます。医者が、君が“はしか“にかかっていると言うとき、ちらっと見ただけで”はしか“とわかるわけではないのです。最初にさっと見た様子から、君がはしかにかかっているのではないかという仮説を立てたのです。そして彼は、もしこの子が本当にはしかにかかっているなら、確かめなければならないことがあると自分に問いかけるのです。目で(君には発疹があるか?)、手で(額が熱いか?)、耳で(胸からはしかのような咳が聞こえるか?)検査していきます。それからやっとお医者さんは「この子ははしかにかかっている」と診断を下します。ときには血液検査やレントゲンのような他の検査が必要になることがあります。

 世界について知るために科学者はもっとかしこい複雑な方法をもちいます。信じてよい事項である“証拠”の話しをしました。次に何でも信じてはならないという3つの悪い事項について、君に警告しておきたいと思います。それは“伝統”、“権威”、“啓示(お告げ)“と呼ばれているものです。

 ①伝統:

最初は伝統です。数ヶ月前、私はテレビ局に出かけて行って、50人ほどの子供たちと議論をしました。これらの子供たちはさまざまな異なる宗教のもとで育てられたという理由でそこに呼ばれたのです。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、あるいはシーク教徒として育てられてきた子供たちです。マイクをもった男の人が、子供たち1人1人に、順番に、何を信じているか質問していきました。彼らが言ったことはまさに、私が“伝統”という言葉で表そうとしたことの正体を浮き彫りにしています。彼らの信仰は、証拠とは何の関係もないことがわかりました。子供たちはただ、両親やおじいさんおばあさんの信仰を持ち出してきただけで、それらは、いずれにせよ、証拠には基づいていないことが明らかになりました。彼らは「私たちヒンドゥー教徒はこれこれを信じます」「私たちイスラム教徒はこういったことを信じます」「私たちキリスト教徒はこれを信じます」というようなことを言ったのです。

娘の為の祈り(真実をみる)(P.25)

 もちろん、彼らはそれぞれ別のことを信じているのですから、全員が正しいということはありません。司会者もお互いの意見の違いを議論させようとさえもしません。そうなるのが当然と考えていたようです。しかしそれは私が言おうとしている点ではありません。私はただ、彼らの信仰がどこから来たのかを尋ねたいと思うだけです。それは伝統からくるのです。伝統とは、おじいさんおばあさんから両親へ、そしてその子供たちへというふうにして、受け渡されていく信仰のことです。あるいは、何世紀にもわたって手渡されていく本からくるのです。伝統的な信念はほとんど何もないところから始まることがよくあります。たぶん、誰かが最初に、アラーやゼウスについての物語のようなものを、こしらえあげただけのことでしょう。けれども何世紀にもわたって受け渡されていくと、とても昔にできたというだけで特別なもののように思えてしまうのです。人々は、ほかの人々が何世紀もおなじことを信じたというだけの理由でそのことを信じるのです。これが伝統や伝説と呼ばれるものです。

 伝統がもっている困った点はある話がどのようにしてつくられたかに関係なく、いつまでたっても、最初のままの真実あるいは偽りのままだということです。もし君が事実でない話をこしらえて、それを何世紀に渡って未来に引き継がせたとしても、それはちっとも事実に近づくわけではないのです。

 この国には色んな宗派の仏教がありそれぞれ皆違ったことを信じています。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教はさらにもう少し大きく違っています。人々は信じていることがほんのわずかにしか違っていなくてさえ、その意見の違いをめぐって戦争を始めることがしばしばあります。そこで君はそういうことを信じている人たちには、そう信じるだけの何かちゃんとした理由―証拠―があるのかもしれないと考えるかもしれませんね。しかし実際には、人々が違った信仰をもつのはなにからなにまで、伝統の違いのせいなのです。

 非常に特徴的な1つの伝説のことを話しましょう。ローマ・カトリック教徒はイエスの母マリアはとても特別な人だったため、死なずに、肉体をもったまま天国に昇ったと信じています。別の宗派のキリスト教の伝説はこれを認めないでマリアはほかの人間と同じように死んだと言っています。マリアの肉体が天に昇ったという伝説はそう古いものではありません。

娘の為の祈り(真実をみる)(P.26)

イエスの時代から6世紀に渡るまでは作られていません。最初それは『白雪姫』のようなお話がつくられるのと同じやり方でつくられたのです。しかしそれが何世紀にも渡り受け継がれていくうちにそれは伝説に成長し、人々はそれがたくさんの世代を受け渡されてきたというそれだけの理由でそれを真面目に受け止めるようになったのです。そして最後には正式なローマ・カトリックの信仰として文章にとどめられることになるのです。それは1950年というごく最近になってからのことです。

 伝説についてはこの手紙の最後でもう1度触れ、別の形で検討することにします。ここでは何でも信じてはいけないというあとの2つの事項“権威”と“お告げ”について片付けてしまいましょう。

 ②権威:

 何かを信じるための理由としての権威とは、誰か偉い人からそれを信じるように言われたから信じるということを意味します。ローマ・カトリック教会では法王が最も偉い人で、人々は彼が法王であるというそれだけで、彼が正しいに違いないと信じるのです。イスラム教のある宗派では最も偉いのはアヤトラと呼ばれる髭をたくわえた長老です。多数の若いイスラム教徒が、遠い国に住むアヤトラがそう言ったというだけで、殺人にかかわる心の準備をするのです。この国でも偉い学者がそう言うのだからそうに違いないと証拠や裏づけもなく信じられて来たことはたくさんありました。ローマ・カトリック教会の法王が1950年にマリアが肉体のまま昇天したと信じなくてはならないと告げた、これだけのことなのです。法王が一生のうちに言ったことのなかには真実であるものもあれば、真実でないものもあるでしょう。彼が法王であるというだけで、ほかの多くの人が言っていることを信じる以上に、彼の言うことを何でも信じなくてはならないという正当な理由はありません。

 もちろん、科学においてさえも、時には自分で証拠を見ることが出来ないので、ほかの誰かの言葉を真実と思わなくてはならないことがあります。私は、光の速さが秒速30万キロメートルであることの証明を自分の目で見たことはありません。その代わり、光の速さを教えてくれる書物を信じています。これも“権威“のように見えます。

娘の為の祈り(真実をみる)(P.27)

しかし現実には”権威“よりずっといいものです。それを書いている人が証拠を見ているし、そうしたいときはいつでも証拠を綿密に調べることが自由だからです。これはとても喜ばしいことです。しかしマリアの肉体が天に向って急速度で上昇したといった話を裏付けるなんらかの証拠があると主張する聖職者は、まさかいないでしょう。

 ③お告げ:

 何かを信じることについての3つめの悪い事項は“お告げ(啓示)”と呼ばれているものです。もし君が1950年法王に対して、「マリアの肉体が天に向かって消えていったことをどうして知ったのですか?」と尋ねることが出来たとしたら、彼はおそらく、「お告げがあった」と答えるでしょう。彼は自分の部屋に閉じこもり、導きを求めて祈った。彼は、たった1人だけで、考えに考え抜き、ますます内面の自分に確信をもつようになっていきます。宗教的な人々が、何かが真実に違いないという気持ちを内面にもっているときには、たとえそれが真実だという証拠がなくても、人々はその感情を“お告げ”と呼ぶのです。お告げを聞いたと主張するのは法王だけではありません。とてもたくさんの宗教的な人々がお告げを聞くのです。

 私が君に君のイヌが死んだと言ったと仮定してみて下さい。君はとても驚いて、「本当なの?どうして知っているの?何があったの?」と聞くでしょう。そこで私が「パッチが死んだことは実際には知らないんだ。証拠はないよ。ただ、私の内面の奥深くでパッチが死んだという不思議な感情があるだけなんだ」。君は私が君を悲しませたことで、かなり腹を立てるでしょう。なぜなら内面の“感情”それだけではあのマルチーズが死んだことを信じるもっともな理由と言えないからです。証拠がなくてはなりません。イヌが死んだことを確かめる確実な方法は、死んだところを見るか、あるいは心臓が止まっているのを耳で聞くか、あるいは、イヌが死んだという何か本当の証拠を見たか聞いたかした人に教えてもらうことです。

 人々は、時に、内面の奥深くにある感覚を信じるべきだ、そうでなければ、「妻は私を愛している」といった事柄を確信できないだろう、というようなことを言います。しかしこれは間違った物言いです。誰かが君を愛しているといった証拠はいくらでもみつかるでしょう。もし君を愛している誰かと1日中一緒にいれば、小さな証拠のかけらをいっぱい、見たり聞いたりでき、すべて納得できるはずです。それは聖職者たちがお告げと呼ぶ内面のみの感情だけではないのです。

娘の為の祈り(真実をみる)(P.28)

瞳をのぞき込むとか甘い声の調子とか、ちょっとしたしぐさや親切で内面の感情を後ろから支える外部の事柄があるのです。こうしたことは、すべて現実にある証拠なのです。

 時には、なんの証拠もないのに、誰かが自分のことを愛しているという強い内部の感情をもつ人がいます。こういう場合にはその人がまるっきり勘違いしている可能性が大きいのです。有名な映画スターが自分のことを愛しているという強い内面の感情を持った人がいます。実際にはその映画スターに1度も会ったこともないのにです。そういった人々はみな、心の病気なのです。内面の感情は証拠で裏づけられていなければなりません。

 科学においても内面の感情は大切ですが、それは後で証拠を探すことでテストできるヒントを与えてくれるという役割からです。科学者は、あるアイデアが正しいと“感じられる”という「直感」をもつことがあります。だたそれだけでは何かを信じていいという正しい理由にはなりません。証拠を探すための実験法を考えたり、調べたりするために多大の労力と時間を費やします。科学者はどんなときでも、アイデアを得るために内面の感情を使うのです。しかし、証拠によって支持されるまでは、そうした思いつきは、何の価値もないのです。

◎ 伝統:

伝統についての話に戻ってくると約束しました。今度はそれを別のやり方で検討してみましょう。伝統は悪い3つの事象の1つと言いましたが、ここでは伝統の大切さについて考えてみましょう。私たちにとってなぜ伝統がそれほど重要なのかという理由を説明してみようと思うのです。もし君が生まれてすぐさらわれて狼に育てられたとしたら人間の言葉はわかりません。人間に育てられたとしても、育った国が違えば教わった事柄、言葉が違います。使う言葉は伝統によって伝え渡されていきます。それ以外のやり方はないのです。アメリカ人に育てられたらイヌのことをドッグといい、ドイツならフンド、日本では犬と呼びます。どちらか1方の言葉がより正しいとかより真実だというようなことはありません。どちらもただ受け継がれてきただけのことです。子供は自分の国の言葉や自分の国の人間についてのたくさんの事柄を覚えなければなりません。

娘の為の祈り(真実をみる)(P.29)

ということは、とてもたくさんの伝統的な情報を、吸い取り紙のように吸収しなければならないことになります(伝統的な情報とは、おじいさんおばあさんから、両親、子供へと受け渡されている事柄について言っているだけだというのを覚えていて下さい)。子供の脳は伝統的情報の吸い取り紙でなくてはならないのです。そして子供に、その国の言葉の単語のような、役に立ついい伝統的情報と、魔女や悪魔や不死の聖母マリアを信じるといった、馬鹿げた悪い情報とを選り分けるように期待することはできないのです。

子供は伝統的な情報の吸い取り紙だから、大人の言うことを、真実であっても嘘であっても、正しくても間違っていても、何でも信じてしまいやすいということは、残念なことですが、どうしようもありません。大人の言うことの多くは、証拠に基づいた真実であるか、少なくとも良識のあるものです。けれども、その1部が、嘘だったり、馬鹿げていたり、あるいは邪悪なものでさえある場合、子供たちもそれを信じてしまうのを防ぐ方法はありません。さてその子供たちが大人になったとき、どうするでしょうか?そうです。もちろん、彼らは次の世代の子供たちに伝えるのです。そして、何かがいったん強く信じられてしまうと(-たとえ、それが完全に嘘であり、そもそもそれを信じる理由などまったくなかった場合さえ-)永遠に続くことになるのです。

これは宗教でおこってきたことではないでしょうか?神あるいは神々の存在を信じること、天国を信じること、マリアが決して死なないと信じること、イエスが人間の父親をもたなかったと信じること、ぶどう酒が血に変わると信じること――こうした信仰のどれ1つとして、正しい証拠によって裏づけられてはいません。でも、何百万人という人々が信じているのです。たぶんきっと、人々が何でも信じてしまう幼いときに、信じるように教えられたからなのでしょう。

ほかの何百万人という人々は、子供のときに違ったことを教えられたために、まるっきり違ったことを信じています。イスラム教徒の子供は、キリスト教徒の子供とは違ったことを教えられます。そして両方とも、大人になって、自分たちが正しくてあいつらは間違っていると、すっかり信じこんでしまうようになります。

娘の為の祈り(真実をみる)(P.30)

キリスト教徒のなかでも宗派の違いで、そしてモルモン教やクエーカー教、仏教はそれぞれ違ったことを信じていて、誰もが、自分たちが正しくてほかの宗派は間違っていると信じています。彼らは君が日本語をしゃべり、アンナ・フランクリンがドイツ語をしゃべるのとまったく同じ種類の理由によって違ったことを信じているのです。どちらの言葉も、それぞれの国では、正しい話し言葉です。しかし異なった宗教がどちらの国でも真実だということはないのです。なぜなら、異なった宗教は相手の宗教が間違っていて自分たちの宗教が正しいと主張しているからです。マリアがカトリックのアイルランド共和国では生きていて、プロテスタントの北アイルランドでは死んでいるというようなことはありえないのです。

こうしたことを、私たちはどうすればいいのでしょう。君が何かをするというのは簡単ではありません。君はまだ10才なのですから。でも努力することはできます。今度、誰かが、大切そうなことを君に教えたときには、自分で「これは、証拠がきっとあるから人々が知っているというような事柄なのだろうか?それとも、伝統、権威、お告げだからという理由だけで信じられているような事柄なのだろうか?」と、考えてみるのです。そして今度、誰かが、あることが真実だと言ったときに、「それはどんな証拠があるのですか?」と尋ねてみてはどうだろうか。そして、もしその人たちが、正しい答えをすることができなければ、君は君に言われた言葉を信じる前によくよく考えてくれることを、私は期待します。

愛する父より

                                 著    者   八 木 謙

                                 発行者   八 木 謙

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